上小岩遺跡展パネルさすがの猛暑も峠が見えただろうと、会期終了が迫った上小岩遺跡展に、友人を誘って見学してきた。
写真が主の小さな展示であるが、なかなか見ごたえのある内容だった。校地の半分の発掘を終え、現在報告書を作成をしている。あと半分は、これから発掘にかかる。
子供たちは、授業をやりながらだから、大変苦労の多い発掘現場になっている。
籾殻痕の残る土師器が展示されていた。(弥生時代後期から古墳時代前期)隣りに参考展示されたS字状口縁台付甕同じ時代のものとあった。この時代に農耕が行われていた証拠だろう。
上小岩遺跡は、特にS字状口縁台付甕の出土量は異常とも思える数である。 この土器は尾張の一宮市周辺で製作, 盛行していたことが判明しており, 太平洋岸を東上するように出土し, 本遺跡にも搬入されたものと推察されている。このS字状口縁台付甕に詰めて運ばれてきたのかもしれない。
漁業が盛んにおこなわれていたと予想されているが、農耕の姿も見えてきた。

金属『金属
長頸鏃
やり 鐵 刀子 古墳時代
古墳時代後期 玉髄
古墳時代 耳環

上小岩小学校の新発見の一つとして、近世をさかのぼる金属製品が多数出土したことがあげられます。 上小岩小学校の調査では6~8世紀の土器とともに鉄のやじりが出土し、また近世以降の植物の植え込みとみられる遺構から古墳時代の「耳環」が出土しました。 この「耳環」 は古墳から出土する人々が身につけた。』

『
姿を現した古代の上小岩 -住居址の発見・
校庭部分の発掘調査では、古代の土器とともに、土でできた遺物が発見されました。 この遺物は調理、暖房等を行う「カマド」 に設置された「支脚」と呼ばれるものです。 支脚は下の図のように土器を支える為のものと考えられます。』
更にパネルは続く、一部を拾ってみます。
『
北小岩地域は8世紀に作成された古文書に記された 「甲和里」という地域だったと考えられています。
しかし現在に至るまで当時の生活を物語る痕跡は発見されませんでした。
令和2年度に実施した校庭部分の発掘調査から、
6世紀から8世紀にかけての竪穴建物址が発見されました。
この建物址は上小岩小学校以前の耕作によって大きく削り取られていましたが、住居の痕跡を示す特徴を残しています。』
『
中世上小岩村か ・区画溝の再発見・
上小岩を含む現在の江戸川区には中世にも集落が存在したことが古文書等から確認されています。
令和2年度から令和3年度にかけての発掘調査中に西から東へ、北から南へと巡る溝を発見しました。
この溝は出土遺物が15世紀後半より新しいものが出土しないため、中世に使われなくなったことが確実な遺構です。
同様の跡は1980年代末の発掘調査でも発見されましたが、このような使われなくなった時代が明らかな中世の遺構は江戸川区内では初めての発見例です。』
『
方形周溝内 令和2年度の発掘調査において、 カタカナの「コ」の字のように掘り込まれた溝が発見されました。「この溝は後世に大きく削平されていますが、溝の内部からは古墳時代の遺物が出土しています。
発見された溝はその形態から、溝を四方にめぐらせた「方形周溝墓」、もしくは周溝に区画された建物と考えられます。
令和4年度に実施した発掘調査では溝状遺構の南側に位置する土坑から、方形周溝と同時時代の土器が出土しました。
この遺構も方形周溝を構成する溝の一部だった可能性が考えられます。
方形周溝内の出土遺物 古墳時代の方形周溝』

『
うつわからみえる 上小岩遺跡の多様性上小岩小学校の校庭部分の調査では、6 世紀から8世紀にかけての土器が大量に出土しました。
出土遺物を観察すると、下総国の土器が最も多く、下総国に隣接していた常陸国 (現在の茨城県) 比企地域(現在の埼玉県)の土器に加え、
東海地方で生産された 「「須恵器」 と呼ばれるやきものを確認できました。』
『
おわりに上小岩小学校の発掘調査は過去に実施されたどの発掘調査よりも面積の大きな調査のため、より多くの出土遺物と生活のあとを発見することができました。 なかでも存在を確認できなかった6世紀 から8世紀にかけての大量の遺物やそれに伴う住居址の発見は、江戸川区のみならず 東京低地東部における人間の生活域が以前より住居址等が発見されていた葛飾区より南に存在していたことをしめすものです。 残念ながら小学校内の遺跡はのこすことが出来ませんが、発掘調査によって得られた成果がより多くのかたに届くことを願い、展示を締めくくりたいと思います。』
上小岩小学校を歩くバスで、上小岩小学校前で降り立つと、目の前に下総国府跡に建つ「和洋女子大学」の校舎が良く見える、もうそこは千葉県市川市国府台、友人は、じゃあ江戸川の河川敷はすぐそこ?とあまりの近さにびっくりしていた。振り向けば、古東海道の立石方向が真っすぐ見通せる。丁度古東海道が西方向の立石、浅草方面に曲がる角に私たちは、立っていた。

小学校は、発掘の終わった部分に、めいっぱいプレハブ校舎が建ち、次の発掘部分が北側部分に整地され控えていた。
いくら文化財の発掘保存とはいえ、子供たち大変だ、プレハブ校舎の移動の繰り返し。運動場はなく、体育館のみ残っている。
弥生時代後期からの複合遺跡に立つ校舎、川が湾曲して、ゆるやかな流れになった自然堤防の微高地、市川砂州が江戸川を渡った延長部分にあたる。1800年前丁度卑弥呼の時代だろう、東海地方一宮周辺の人びとが安全で肥沃な土地を求め移住してきたのだろう。弥生時代後期から人間の営みが行われてきた。子供たちは、生きた考古学を体験している。自分たちの祖先が生きた証を直接感じることができているのです。
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- 2023/09/05(火) 07:05:05|
- 葛西御厨東縁部の動意
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上小岩遺跡で、正倉院文書「甲和里」発見か上小岩遺跡は江戸川西岸の微高地上に位置する弥生時代から近代にかけての複合遺跡です。対岸には下総国府跡があり、8世紀前半の正倉院文書にみられる 「甲和里」 比定地として知られています。その中心地から、古代集落に関連する遺構と遺物を数多く発見されたのです。住居跡や方形周溝も発見されたのです。
産経新聞の新聞記事(7/26(水) 21:42配信)によると
『江戸川区・上小岩遺跡で古代の住居跡 集落存在裏付け 区郷土資料室で公開
江戸川区立上小岩小学校敷地の発掘調査で見つかった古代の住居跡の写真と、出土した土製品=26日、東京都江戸川区郷土資料室

東京都江戸川区北東部にある区立上小岩小学校の改築工事に伴う発掘調査で、6~8世紀の住居跡とみられる遺構が発見されていたことが分かった。
小学校の敷地は付近一帯に広がる「上小岩遺跡」の中心地とみられ、古代の江戸川区に集落が存在していたことが初めて裏付けられた。調査は今後も続くが、区教委は区郷土資料室(同区松島)で「もっと、ビックリ!! 上小岩遺跡展」を開催。令和3年4月までの発掘成果を公開している。 上小岩遺跡は、東京東部の低地帯の中で、比較的高い「微高地」に位置する。付近では戦後、土器のかけらが発見され、地元の教諭による調査で昭和40年代に都の遺跡地図に登録された。 これまでも、下水道工事などの際に断続的に発掘調査が行われ、弥生時代後期以降の土器などが出土することから、集落の存在が推定されていたが、住居の痕跡は見つかっていなかった。また、養老5(721)年に作成されたこの地域一帯の戸籍には「甲和里」「嶋俣里」などの記載があり、地名から「小岩」や、葛飾区の「柴又」を指しているのではないかと推定されるものの、こちらも裏付けはできていない。 一方、遺跡の中心地と考えられてきた場所に建つ上小岩小学校の改築工事が行われるのに合わせて、約7500平方メートルの敷地全域の発掘調査を令和2年から開始。区教委によると、校庭部分などから始め、9年ごろまで続けられるという。 3年4月までの調査では、さまざまな時代の土器や磁器が発見されているほか、6~8世紀の竪穴住居跡とみられる柱穴や、周辺でかまどに使う土製品が見つかった。 区教委教育推進課文化財係の小島雄二係長は「
存在が推定されてきた古代の集落が区内に存在したことが、初めて裏付けられた」と明かす。発掘では地面を溝で四角に区切る「方形周溝」も発見。周溝の内側に何があったのかはわかっていないが「何らかの建造物があったのではないか」(小島氏)という。』
上小岩遺跡は、昭和 27年に当時小岩第三中学校の生徒が、自宅裏の用水路から数個の土器片を発見し、学校の中村進先生に連絡、教諭は同時に考古学界の研究者に連絡したが、そんな低地に遺跡があるわけない、洪水で上流から流れてきたものだろうと相手にされなかったのです。
無理もありません、
当時日本は戦争に敗れ、自信を失い、打ちひしがれていた時代、対岸の市川市では、教科書を書き換えるほどの、大規模遺跡が発見され、発掘ブームで沸き立っていたのです。意気消沈していた人々に自らの文化に対する誇りと自信を取り戻し、勇気づけたのが考古学だったのです。中村教諭はそれから、たった一人で、30年間研究を続け、その採集遺物は3万点以上にも及び
特にS字状口縁台付甕の出土量は異常とも思える数である。 この土器は尾張の一宮市周辺で製作, 盛行していたことが判明しており, 太平洋岸を東上するように出土し, 本遺跡にも搬入されたものと推察されている。 今回、蛍光X線分析でこの土器片を胎土分析した結果, ある集中関係を示すものと, 拡散するものがあり、地元で焼かれた土器と搬入品の二種類の存在の可能性を示唆する結果が得られている。

『正倉院文書 養老年間下総国葛飾郡大嶋郷戸籍における甲和里、嶋俣里、仲村里について、嶋俣里は、現在の柴又であり、甲和里は、小岩ではないか、仲村里は比定地が明らかになっていないが、古墳の所在する立石周辺と私は見ている。考古学的にも、柴又には、住居跡が確認され、柴又八幡神社古墳が確認され、立石周辺には、熊野神社、南蔵院の古墳が所在している。
そこで、残る甲和里の比定地小岩の考古学的遺物の存在が求められていた。上小岩遺跡には、弥生時代後期古墳時代前期、いわゆる卑弥呼の時代の考古学出土物はあるが、7世紀8世紀の住居跡が明らかになっていない。S字型口縁台付甕出土の特徴から、東海地方一宮を中心とした地域からの渡来物が多く出土する特定地域であった。東海地方からの移住者がこの時代に多くいたことがあったと思われる。歴史の大きなうねりがこの上小岩遺跡に押し寄せていた。
このため、甲和里に繋がる住居跡を求めて、調査が長い間続けられていた。
正倉院文書を手掛かりに、まるでシュリーマンの伝説を手掛かりに、トロイの遺跡を発見したように、調査を続けてきたのが、中村教諭であり、教諭を励まし周辺の調査を一緒にやっていた郷土史家の中川磯吉氏等であった。上小岩遺跡のシュリーマンの働きを忘れてはならない。』
上小岩遺跡展には、早速すぐにでも見に行きたいのだが、連日の猛暑、とても足を向けるどころではありません。暑い日を避け訪問したいと予定しています。とりあえず、分かっている範囲での興奮のままの報告をしている次第です。
東京都遺跡調査・研究発表会 発表要旨がネット上で公開されていたので紹介します。
調查概要上小岩遺跡は江戸川西岸の微高地上に位置する弥生時代から近代にかけての複合遺跡です。対岸には下総国府跡があり、8世紀前半の正倉院文書にみられる 「甲和里」 比定地として知られています。
昭和20年代から実踏調査が開始され、 現在に至るまで発掘調査が実施されています。
令和2年度から区立小学校の校舎新築工事に先立つ発掘調査を実施しており、現在は小学校校庭部分の発掘調査報告書を作成しています。
弥生時代~古墳時代不整形の3条の溝が巡る方形周溝、 土坑を確認しました (第1、2図)。 方形周溝は後世に削平を受けており、方形周溝墓もしくは方形に溝を巡らせる建物跡であったと考えられます。 当該期の出土遺物として土器、漁網の土錘、装身具の耳環が出土しています。
奈良・平安時代竪穴建物跡、土坑、ピットなどを検出しました(第3図)。 建物跡は削平を受けており、 方形に巡る周溝の一部と柱穴痕のみ遺存している状態で、周辺から住居内での煮炊きに用いられた土製支脚が出土しています。
また竪穴建物の北側にも複数のピットが発見され、さらに多くの竪穴建物もしくは掘立柱建物が存在していたと考えられます。
出土遺物は主に7世紀代から8世紀前半頃の遺物が主体で房総半島、北関東などの土器に加えて東海地方や筑波山南麓の地域、北関東などの須恵器、鉄鏃が出土しました。さらに竪穴建物跡北側の遺物集中部などから、被熱した多孔質の砂岩が複数出土しました。 同様の資料は東京都八王子市神谷原遺跡、埼玉県川島町富田後遺跡からも出土し、研究者から製塩による副産物の可能性が指摘されています。中世
中世の主な遺構として、溝状遺構や土坑、井戸跡、ピットを発見しました (第6・7図)。
注目すべき成果として、調査区中央部から南側にむけて屈曲する溝状遺構を検出しました。 この遺構の役割として、溝の内外を区画し、生活空間を生み出すことが想定されています。出土遺物から15世紀後半には埋没したと考えられます。同様の遺構は葛飾区上千葉遺跡、板橋区舟渡遺跡のような東京低地東部の他地域においても確認されています。
中世の出土遺物は15世紀後半のものが主体です 中国大陸からもたらされた12世紀末から13世紀前半の青磁や白磁などの磁器、東海地方の陶器や 在地の瓦質火鉢、14世紀代の紀年銘をもつ板碑片が出土しています。
近世
畝間などの耕作跡、溝状遺構、 井戸跡、 土坑を検 出しました。 これらの遺構は出土遺物から17世紀前半、18世紀後半から幕末頃のものと思われます。
近代
明治15年(1882) に設置された小学校に関わる硯や蝋石、陶器などが出土しました。
また調査対象ではありませんが、木組みの遺構から1930年代後半の玩具、記章、文房具が出土しました。
これらの資料は学校と協議のうえ、新築校舎において戦前の学校史に関わる資料として展示を行うこととしました。
調査の成果
この学校用地内の大きな成果のひとつとして、従来は文献から存在が指摘されていたものの、少数の事例に限られていた古代集落に関連する遺構と遺物を数多く発見したことです。また竪穴建物跡は本区で最初の発見例となりました。
そして古墳時代の方形周溝も本区で最初の発見例として注目されます。
さらに中世の溝状遺構による15世紀後半の生活区域の発見は、同時代の文献資料では確認できなかった当地域における中世集落の存在を裏付けるものとなりました。

- 2023/07/31(月) 21:12:32|
- 葛西御厨東縁部の動意
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大和古墳群と東国長柄桜山古墳群との関係を探る「長柄桜山古墳群発見の意義と今後の展望」北条講演に基づいて、山の辺の道周辺の大和の古墳が東国に与えた影響を見てみます。
講演会日時 2022年12月17日(土)13:30~16:00場所 逗子市庁舎 5階会議室
講師 東海大学教授・長柄桜山古墳群整備検討会委員 北條芳隆さん(東海大学教授)
●
講演会の内容 三浦半島のつけ根の丘陵上から古墳時代前期(4世紀後半)の2基の大型前方後円墳が発見されたことは、『古事記』などに見られる
ヤマトタケルの「東国遠征」を連想させるものとして、大変な驚きをもって受け止められました。大和政権が東国へ影響力を強めたこの時代の様子について、現在の最新の知見からみた長柄桜山古墳群の歴史的意味を、東海大学教授、長柄桜山古墳群整備検討会委員の北條芳隆さんに語っていただきます。

●
古墳群の価値は長柄桜山古墳群は、2基とも全長が90m前後で、神奈川県内の古墳では現存最大級の規模を誇ります。どのような人物が葬られたのか、具体的なことはわかりませんが、
古墳群が位置する三浦半島の付け根は、相模湾と東京湾を陸路で約5.3kmの最短距離でつなぎます。そのため、長柄桜山古墳群は
二つの湾をつなぐ交通を掌握した有力者の墓であり、この地は
当時の太平洋岸における東北・関東と畿内を結ぶ交通の要衝として重要な役割を果たしたと考えられます。
東殿塚古墳は、前方後方墳、埴輪、円筒埴輪が長柄桜山古墳1号墳の埴輪に似ている。
この西山古墳後方墳グループが関東に影響を与えた。焼成後穴をあけられている。伊勢湾周辺の二重口縁祖型、朝日遺跡でも円窓がある。
長柄桜山古墳1号墳 頂上での祭祀、弥生末期での四隅突出型でも行われていた。一方赤点線箸墓+西殿塚グループは、西日本に影響を与えた。
『纏向遺跡の廃絶後誕生した大和東南部古墳群 本古墳群の頂点は、西殿塚・東殿塚古墳
既存の箸墓古墳を南端に配し、頂点の手前側に西殿塚古墳を新造、西殿塚古墳の裏側に東殿塚古墳を新造し、北端に西山古墳を造営することで古墳群全体の配列が完成。
吉備の特殊器台・特殊壺に起源をもつ埴輪は大和東南部古墳群で模倣されたのち急速に形骸化と単純化を遂げ、 大和起源の埴輪祭祀へと転じる。 祭祀の脱吉備化とも言える。』
「大和東南部古墳群」の全体構想は、中央の東殿塚古墳と西殿塚古墳を頂点として、北端の西山古墳と南端の箸墓古墳を底辺の両端とする巨大な二等辺三角形であり、その二等辺三角形の中の古墳も、北の前方後方墳と南の前方後円墳というセットで、中央の東殿塚古墳と西殿塚古墳を頂点とする二等辺三角形を形成している、という。」
『東殿塚古墳の埴輪で特殊壺の胴部には巴形透し穴が開けられ、 朝顔形埴輪と鰭付埴輪が誕生し、 タガ状突帯3段構成も誕生。 後円部外反の円筒埴輪も誕生した。
鰭埴輪は埴輪列で囲い込むことを意識した工夫。 こうした祖型埴輪からの逸脱と改変の影響が関東地方にも及んだと考えられる。』
『
大廓型壺の本拠地周辺一帯と前進拠点の範囲を包括して捉えれば、『古事記』 のヤマトタケル東征伝承が駿河と相模を混交させた記述となっている点も頷ける』

大廓式土器は静岡県東部駿河湾沿岸に分布の中心が求められており、とくに大形の壺は、中部地方から関東全域にかけて広く分布することから、土器の移動が注目されています。』
『
まとめ 纏向遺跡が誕生した時点での
東海東部は初期大和東南部古墳群の成立によって東国一帯には前方後方墳を波及させる動きが生じ、東殿塚古墳を頂点とする政治的なまとまりの整序を図った。連携の象徴が伊勢湾型二重口縁であった。
相前後して成立した3段構成の円筒埴輪や朝顔形埴輪は西山古墳の築造時には関東各地へと波及し頂部を埴輪列で囲む方式と合わせて拡がった。長柄桜山古墳群はこのときに出現した。 ただし竪穴式石室は到達せず葺石の採用も2号墳に止まった。この間の経緯の復元 や2基の造営主体の性格解明が今後の課題』
- 2023/06/14(水) 18:45:59|
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邪馬台国からヤマト王権へ「吉野ヶ里遺跡」「謎のエリア」から卑弥呼の時代の石棺墓発見されたと“邪馬台国論争”が再び起こっています。
九州説は「志賀島で金印が出た」ことを根拠に優勢でしたが、「箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)が築造されたのは240~260年という研究」を国立歴史民俗博物館がまとめた。放射性炭素年代測定によるもので、250年ごろとされる卑弥呼の死亡時期と重なる。
近畿説を唱える人は「箸墓の存在、卑弥呼の時代の前方後円墳がある」と主張を強めていました。
纏向遺跡の大型建物跡の発見は、その後のヤマト王権成立とのスムーズな移行を物語り、近畿説が、強くなってきたと感じています。
吉備から出雲を伴い移住した集団が、大和川からその支流纏向川を遡り、三輪山の麓に入り、大和を開いたとみられる。東の方向、日の出方向を目指していた。西の方向と言えば、日の入り西を目指した、それは、出雲、黄泉の国を目指し、東は結果的に伊勢を目指している。
山の辺の道に沿った大王墓の存在『古代史は、古墳の巨大なものが、大和古墳群にはたくさんある。ヤマトは、卑弥呼の時代から連続した時代にヤマト王権になったとみられる。
大型古墳の造営は、奈良盆地を北東戍亥隅方向に進んだように見える。
箸墓古墳+纏向遺跡+衾田陵—方位290度西北軸(緑の軸線)
これが、ちょうど山の辺の道と重なる方向になる。
開発の方向とたまたま一致したのだろうか。
山の辺の道に並ぶ古墳の列古墳は、山の辺の道に沿って、集中して配置されている。
衾田陵から箸墓は、山の辺の道に沿って大王の墓が配置されている。
この道を通って、ヤマト王権の宮都にやってくる人は、まずこの巨大古墳を見ることになる。びっくりすることは請け合いだろう。その上、ヤマト王権の偉大な存在を認識しただろう。古墳の並んだ様子は、古墳の回廊は、光り輝く道となっていているように見える。
現在の様子は、樹木に覆われているが、造営された当初は、葺石が敷き詰められて、その墳形はピラミッドのように映る。更に光る葺石は、荘厳そのものであった。
それは、丁度鎌倉時代の鎌倉街道を上ってきた人々が、鎌倉に入って最初に目にする建長寺などの大寺院の伽藍を見たときの驚きと同じようなものだろう。鎌倉有数の巨刹で広大な敷地に威風堂々とした壮健な佇まいを誇る、総門・山門・仏殿・法堂・方丈が一直線に並ぶ伽藍配置など、目を見張るものがあっただろう。
山の辺の道に沿って歩くと巨大な古墳が次々と現れる様子は、現代にあってもその荘厳な偉大さは変わらない。燈篭山古墳の手前で、広大な墓地に紛れ込んで、道を間違えたと戻ったが、農夫から、「墓地を抜けて進め、早く行かないと日が暮れる。」とはっぱをかけられたその場所からの古墳群の壮大な光景を少し高い位置から見ると正に下の写真になる。一つ一つが、300mを越える、現在は、大きな樹木が覆っているが、造営時は墳形が見事に姿を現していた。
三輪山のすそ野が迫る、纏向の王権誕生の地
- 2023/06/11(日) 15:17:40|
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山の辺の道南コースを歩く【
邪馬台国からヤマト王権形成へ】
奈良古代史の旅に行ってきました。5年前に三輪山の麓を巡る旅以来の大和です。
今回は、天理の石上神宮、山の辺の道南コース、明日香、高松塚古墳、寺内町今井と巡った。
よく歩いた、一日の記録、東京低地のこと街道を昨年歩いた以来の 23632歩を記録した。
新型コレラも新しいステージに入ったことを私たちも体感できた旅であった。
石上神宮は、天理駅から徒歩30分位の布留にあった。天理教の地で、天理大学もある。天理教の施設が次々と現れる。交通量も少なく、静かで健康的な、宗教都市と言える。清々しい良い空気いい風が感じられる。
小川の辺を歩いていたら、この道が山野辺の道と表示されていた。既に山の辺の道を歩いていたことに気づかされた、舗装されているから気づかないが、この地はうっかりすると古代の遺跡を何気に踏んでいることになる。
【
物部氏の里】
『布留遺跡は春日断層崖から流れ出る布留川が形成した扇状地の周辺部に営まれた遺跡で、縄文時代から近世まで続く遺跡です。特に縄文時代早期や中、後期、そして弥生時代末から古墳時代にかけて大きな遺跡となります。中でも古墳時代は規模が最も大きく、大和王権の軍事部門を司った物部氏の本拠として栄えました。天理観光協会』
古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。(Wiki)
さて、石上神宮は、大鳥居を潜った途端に、放し飼いのニワトリたちが、迎えてくれた。『古事記』『日本書紀』に登場し、暁に時を告げる鳥として、神聖視され、神様のお使いなのです。
「御祭神は、第10代崇神天皇7年に現地、石上布留の高庭に祀られました。当神宮にはかつては本殿がなく、拝殿後方の禁足地を御本地(ごほんち)と称し、その中央に主祭神が埋斎され、諸神は拝殿に配祀されていました。明治7年菅政友(かんまさとも)大宮司により禁足地が発掘され、御神体の出御を仰ぎ、大正2年御本殿が造営されました。
禁足地は現在も「布留社」と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれ、昔の佇まいを残しています。」
禁足地の剣先状石瑞垣は、この目でしっかり確認した。
【
七支刀(しちしとう) [ 国宝 ]】
冒頭の「泰□」の2字目は、現在僅かに禾偏(のぎへん)を思わせる線が残っているのみで、旁(つくり)にあたる所にはこの文字を探究した人がつけたと思われる傷痕があって、字は詳らかではありません。しかし、「泰和(たいわ)」として東晋(とうしん)の年号「太和」(西暦366~371)の音の仮借とみる説があり、それによるとこの七支刀は西暦369年に製作されたと考えられます。
【
石上神宮七枝刀】
七枝刀これはいうまでもなく、教科書でだれしもが見た異様な剣、本物を見る機会というのはそうあるものではない。むろん今度初めて実物を見る。

「この刀剣には、表裏合わせて61文字が金象嵌されている(彫った文字の上に金がのせられている)。
その銘文の解釈には諸説あるが、大意はざっと以下のとおりだ。
「泰和(太和に通じる)4年の吉日に上質の鉄で七支刀を造った。
この刀は多くの敵兵を退ける力があり、侯王にふさわしい。未だこのような刀は百済にはなかった。
百済王・・・(中略)・・・倭王のために造り、後世に伝えられるように。」東博の井上洋一氏の解説
からくも「七枝刀」の部分は判読できた。』
この七支刀は『日本書紀』に神功皇后摂政52年に百済から献上されたとみえる「七枝刀(ななつさやのたち)」にあたると推測されており、前述の推定に誤りがなければ、この七支刀の銘文は『日本書紀』の紀年を訂正し、その伝承を裏付けることになります。しかも、この銘文は、我が国古代史上の絶対年代を明確にする最古の史料なのです。』
【
朝鮮半島情勢】
『高句麗 (紀元前1世紀頃〜668年)
北方系の高句麗族が中国東北地方から朝鮮半島北部に建てた国。南進して313年楽浪郡を滅ぼし、4世期末〜6世紀初めに最盛期を築き、新羅を懐柔して百済を攻める南下策を進め、427年以降平壌に遷都。7世紀、隋・唐の攻撃を受け、撃退したが、668年唐・新羅の連合軍に滅ぼされた。
朝鮮半島南部の鉄資源を確保するために、はやくからかつての弁韓の地の伽耶諸国(加羅)と密接な関係を持っていた倭国(ヤマト政権)も、高句麗と争うことになった。』
南部は倭と関係の深い百済と新羅が在り共に倭に従属していたが、新羅は7世紀中葉に入って日本が白村江の戦により大陸での影響
力を完全に喪失する以前も、度

々朝貢を怠るなど叛服常無かった。』
『武光誠「ヤマト政権と朝鮮半島謎の古代外交史」P29.30によると
紀元前1世紀なかば頃には中国東北部地方に高句麗が興っていた。さらに、一世紀なかばには朝鮮半島南部の韓族の小国の成長がみられた。これらは、中国の朝鮮半島北部進出に対抗するものであった。
朝鮮半島南部の小国群は、馬韓・辰韓・弁韓の三つの連合体に分かれていた。三韓には、北方の騎馬民族系文化・ツングース系文化と南方系文化が混在していた。 しかし、馬韓だけにとくにつよい騎馬民族系文化の影響がみられた。
天の祭祀は、騎馬民族に特有のものであるが、『三国志』によると、馬韓には村々に天井 という天をまつる祭官がいたという。辰韓と弁韓には天君はいない。
このことは、三世紀なかば頃までに、多くの騎馬民族系の移住者が高句麗などから馬韓にきていたことを物語るものだ。』
武光誠「ヤマト政権と朝鮮半島謎の古代外交史」P29.30によると
紀元前1世紀なかば頃には中国東北部地方に高句麗が興っていた。さらに、一世紀なかばには朝鮮半島南部の韓族の小国の成長がみられた。これらは、中国の朝鮮半島北部進出に対抗するものであった。
朝鮮半島南部の小国群は、馬韓・辰韓・弁韓の三つの連合体に分かれていた。三韓には、北方の騎馬民族系文化・ツングース系文化と南方系文化が混在していた。 しかし、馬韓だけにとくにつよい騎馬民族系文化の影響がみられた。
天の祭祀は、騎馬民族に特有のものであるが、『三国志』によると、馬韓には村々に天井 という天をまつる祭官がいたという。辰韓と弁韓には天君はいない。
このことは、三世紀なかば頃までに、多くの騎馬民族系の移住者が高句麗などから馬韓にきていたことを物語るものだ。』
【
山の辺の道南コース】
山の辺の道は石上神宮境内を貫いている。奈良市内に向かう山の辺の道北コース、三輪山方面の南コースが石上神宮から始まっている。5年前には、三輪山の麓を中心に歩き、その際山の辺の道を歩いている。箸墓古墳、纏向遺跡など邪馬台国や初期ヤマト王 権の成立時に連なる遺跡が並んでいた。
今回は、この邪馬台国、初期ヤマト王権の大王の古墳などが集中する地域を歩きます。
【
やとぎ 夜都岐神社】
当社は、昔から奈良の春日大社と縁故が深く、 明治維新までは、当社から「蓮の御供」と称する神饌を献じ、 60 年毎に春日から若宮社殿と鳥居を下げ られるのが例となっていたと伝える。
葺の神社建築で、 西方の朱の鳥居は、嘉永元年(1848 年)4月、奈良の春日若宮から下げられたものという。』

夜都岐神社門前に立ち並ぶ民家の景観は印象が強い。白壁の蔵、焼き杉板張・和瓦(黒)仕様長屋門づくりが、門前に立ち並ぶ様子は壮観そのもの。山の辺の道沿道には、この白壁が引き立つ美しい民家が多い。
維持するだけでも大変だろうと友人と感じた。
趣のある路地が続く。


【
竹之内環濠集落】
環濠集落とは、外敵から身を守るため周りに濠を巡らせた集落のことで、その始まりは室町時代に遡ると言われています。標高100mと最も高所に造られた環濠であった。最終日に訪れた今井町の環濠集落は、低地にある。
「衾田陵」と山の方向に案内板があり、被葬者は継体天皇の皇后、手白香皇女(たしらかのひめみこ)の陵墓とされています。この時、継体天皇は6世紀の何故ここにと思い、その時代であればわざわざ山に登ることもあるまいと、先に進んでしまったのです。これは失敗でした。
既に歩数計も2万歩を越えており、燈籠山古墳のあたりで墓地に迷い込み、土地の人に山の辺の道を尋ねると墓地の道を抜けていくことを教えられ、同時に「もう時間が遅いので早く行かれると言い」と親切に言われたことも手伝い、崇神天皇陵に急ぐことにした。
目指す崇神天皇陵は、最古の実在の天皇、纏向遺跡の大型建築物の主と目され、この地がヤマト王権と深いかかわりがあるとされている。しかし時間切れとなり、見学することができず、最寄りの柳本駅に向かうことにした。
ところが、ここで見つけたのが、黒塚古墳であった。運が良いことに駅への道沿いに濠があり、前方後円墳の美しい墳形がはっきりと見て取れた。この古墳は、たいへん有名、邪馬台国所在地論争の行方を左右するほどの卑弥呼の鏡と見られる33面出土している。
山の辺の道から少し外れているので、危うく見逃すところであった。
ヤマト王権の推定初期大王墓 (白石太一郎)
代 古墳名
1 箸墓古墳 3世紀中頃から後半築造推定、被葬者倭迹迹日百襲姫命、卑弥呼
2 西殿塚古墳 「衾田陵」3世紀後半頃の築造推定、被葬者は箸墓古墳後継の台与説
3 外山茶臼山古墳
4 メスリ山古墳
5 行燈山古墳 4世紀前半頃(古墳時代前期)の築造と推定。被葬者崇神天皇
6 渋谷向山古墳 被葬者景行天皇
参考 黒塚古墳 3世紀後半築造推定33面の三角縁神獣鏡ほぼ埋葬時の配置で出土
築造時期は、副葬品から1乃至2代相当、卑弥呼の時代と推定される。
黒塚古墳(くろつかこふん/くろづかこふん)は、奈良県天理市柳本町にある前方後円墳。33面の三角縁神獣鏡が、ほぼ埋葬時の配置で出土したことで知られ、国の史跡に指定されている。
考古学の白石太一郎は、第I段階から第V段階までに編年分類される三角縁神獣鏡のうち、この古墳では第I段階から第III段階までが出土し、第IV段階以降が出土していないので、
西暦260年すぎ(3世紀中葉?後葉)には造営されていた可能性が高いとしている。
平成9・10年に行われた発掘調査では、長大な竪穴式石室が見つかり、三角縁神獣鏡33面、 画文帯神獣鏡1面、 多数の刀剣や鉄鏃、 武具などの副葬品が出土しました。 黒塚古墳はヤマト王権が出現した時代に築かれた古墳で、初期国家形成に関わった有力者の墓と思われます。』Wikipedia
三世紀なかば頃までに、多くの騎馬民族系の移住者が高句麗などから馬韓にきていたことを物語ることを背景とし影響された上記の「ヤマト王権の推定初期大王墓」の時代。黒塚古墳は、正に、卑弥呼の時代と初期ヤマト王権形成に関わった有力者の墓をつなげる有力な史料と目される。
そして313年頃に起きた高句麗の南下政策によって、楽浪郡などが蹂躙され、半島南部の馬韓・弁韓・辰韓の三韓の動乱を引き起こし、馬韓から百済が起き、辰韓から新羅が起こった。ヤマト政権は、4、5世紀に弁韓のうち、金官伽耶国(任那)と結んで高句麗や新羅と戦った。このことの文字証明が、石上神宮の百済七支刀ということになる。
馬韓だけにとくにつよい騎馬民族系文化の影響がみられたことが、その後のヤマト王権に大きな影響を与えていた。
邪馬台国、初期ヤマト王権の大王、初期国家形成に関わった有力者の古墳などが次々と現れ、疲れてぼんやりしていると見逃してしまう。初期国家形成の地にして、邪馬台国関連遺跡との蓋然性をもった出現を強く感じた今回の旅であった。
- 2023/05/04(木) 22:49:16|
- 古代史全般
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