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相模湾 海から見る風景

ご訪問に感謝します。逗子、鎌倉の海を眺める散歩の日々、神奈川の古代を作った人々に思いを馳せ、古代史探訪、鎌倉歴史探訪しています。

鎌倉祇園大町祭り

鎌倉祇園大町祭り
夏祭りの季節だというのに肌寒い日が続きます。北東の風に乗って、太鼓の音が聞こえています。大町の八雲神社でしょう。
鎌倉市大町に鎮座する八雲神社の例大祭、鎌倉祇園大町祭りが行われている。

昨日、所要で出かける途次、八雲神社に立ち寄った。4基の神輿は渡御に出た後の静かな境内であった。拝殿の提灯に海藻が掛けられていました。
八雲神社海藻

宮司の話によりますと 「鶴岡八幡宮やここ八雲神社や西御門八雲神社などでは祭りの早朝に神職らが浜で禊をする。それを示すのが、社殿向拝の柱の両側に立てた祭りの提灯立てに掛けられた海藻だ」ということです。
西御門八雲神社では普段から鳥居に海藻を掛けています。

神社の神事と海藻の関係は、出雲地方では今でも「和布(わかめ)刈神事」があります。
あるいは、北九州市の門司にある和布刈神社和布刈(めかり)神事や宮城県塩釜市の塩釜神社には、藻塩焼神事とよばれる行事などが有名です。

ところで、葉山には、三ヶ岡(さんがおか)遺跡と呼ばれる製塩遺跡があります。
「三ヶ岡(さんがおか)遺跡とは
神奈川県立近代美術館 葉山の建設に伴い、この地にあった三ヶ岡遺跡が発掘調査され、主に古墳時代から平安時代(4~10世紀)にかけての集落の跡が発見されました。この遺跡で特筆されることは、海浜に立地する特徴を活かした平安時代の製塩跡が見つかったことです。
ムラの跡:竪穴住居が22軒、掘立柱建物が1棟密集して発見されました。ほとんどが6~7世紀のもので、継続して居住していたことがわかりました。
製塩跡;約2×6mの範囲に火を受けて赤く硬くなった地面があり、そのそばから多量の土器が打ち捨てられたまま出土しました。また海水を煮詰めるためのものか、石組炉の跡も2基発見されています。」
海藻(ホンダワラ)を刈り取り大釜で煮詰めて塩をつくる、藻塩焼の姿が目に浮かびます。海藻が祭りの朝、神社に備えられる神事には、海藻や塩が人間の生きる上での生命線だったことを物語っているのです。

ポスター
鎌倉祇園大町まつり」の紹介によりますと、「鎌倉の100年以上続く、伝統文化。提灯に火を入れた四社の神輿が 横一列に揃う姿はとても美しく幻想的。奉舁する者も、拝観する人も「悪疫退散招福繁昌」が約束されると古くから語り伝えられている伝統的なお祭りです。」
「明治25年小島鳥水の「小壺日誌」に「7月14日夜鎌倉大町の祭礼を見ばやと行く・・中略・・大町にいたれば景況一変して雑踏言はむ方なく、揃ひの晴衣に天王さまを担ぐ若者の前駆には、何やら節をかしく唄う撃折小児の賑はしく神輿の駐まるところ、喝采湧くがごとく起きる。神輿の数は四、大町は提灯に「大」字なり・・とある。」
当時の人々の祭りの興奮や賑やかな模様が描かれています。
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  1. 2019/07/14(日) 12:07:11|
  2. 逗子鎌倉葉山散歩
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ゴンドラ型の船を辿ると日本人の源流に

ゴンドラ型の船を辿ると日本人の源流に

「日本文化の基層を探る」佐々木高明著 を読み返していて、古い写真印刷の「ゴンドラ型の船」を見つけた。
これまで見逃していた、写真は、ゴンドラ型の船と漕ぎ手(上) 拓本・雲南省博物館蔵とある。(弥生土器に描かれた船(下)、鳥取県宇田川遺跡)とともに掲載されていた。
ゴンドラの船中国日本


この形は?どこかで見たと思っていると、一昨年ベトナム北部への旅行の際、印象に残って撮影したものによく似ていた。

拡大して見やすくしました。

上の、雲南省博物館蔵の拓本は、拡大するとはっきり見えて、よく見ているとゴンドラの櫂を漕ぐ姿が浮かんできます。頭に飾りをつけています。鳥の羽根でしょうか。
左右の舷側に二人づつ並んでいるのが分かります。確認できる漕ぎ手は、両側で12人はいます。右端が欠けていますので、18人くらいの漕ぎ手がいたように思います。もっといるように見えます。
水面には、魚と水鳥が描かれています。改めて見ると活き活きとした動きが、読み取れます。とても2000年前に描かれたものとは思えません。
日本のものは、残念ながらよく読み取れませんが、ゴンドラ船の形は確認できます。

「資料の不在と考古学」高倉洋彰の中では、「鳥装の羽人とゴンドラ形の船 鳥取県米子市稲吉角田遺跡出土の土器に刻まれた絵画(佐々木 1981)には,頭部を羽で飾った鳥装の司祭者(羽人)がゴンドラ形の船で祭殿や穀倉をめざしている内容が描かれており、弥生時代の祭儀を示す好例として知られている。」と解釈されています。

ベトナムハノイの旅で発見
さて、ベトナムで撮った写真は、次のものです。ゴンドラ型の船が、ベトナム少数民族博物館にて、展示されていました。彩色が施され南方を強く印象づけました。

ベトナムゴンドラ船

一昨年のベトナム北部への旅行の時、ツアー一行と別れ、ベトナム少数民族博物館を訪問した。
単独行動でしたから行くだけでドキドキものでしたが、見るもの聞くもの初めて知る、日本の源流を意識させる文物ばかりでした。
詳しくは「ベトナムの歴史」をご覧ください。
このゴンドラ型船は、屋外展示され、三内丸山遺跡の茅葺屋根のような建物に囲まれていました。
きれいに装飾されていて、おやっと思いましたが、写真に収めるだけにとどまっていましたが、おやっと思ったのは、弥生時代の黒潮に乗って、日本にやってきたと思ったのかもしれません。20以上の櫂が備えられています。漕ぎ手がかなりいますので、遠洋航海も可能にも見えます。
中国大陸の東南海沿岸からベトナムにやってきたのかもしれません。


佐々木高明氏は、『日本文化の基層を探る』)の中で、照葉樹林文化に着目「要旨 いったい日本列島において、日本文化はどのように形成・展開したのか。東と西に分かれる文化の諸要素は、縄文=狩猟・採集文化の系譜なのか弥生=稲作文化の伝統なのか。その出自と系統をめぐる論議は活発である。本書は、原初農耕文化論の権威が、該博な知識を駆使し、いわゆる照葉樹林文化とは異質なナラ・ブナ帯に展開する北方系文化の流れを「ナラ林文化」という枠組みで提起し、日本文化の二つ源流を明示する。」本書出版紹介文による。

佐々木照葉樹林


王権の形成と海神の中で、
「金属器文化をもたらし、国家思想ともいうべき、社会的、政治的な統合原理を持ち込み、王権を生みだした人たちこそが、海人ではなかったか。それらの伝来に大きな役割を担ったのは、中国大陸の東南海沿岸から済州島や朝鮮半島南岸一帯に広く分布し、さらには北部九州や本州西部まで、その活動範囲を広げていた海人たちではなかったか」
「安曇、住吉、宗像のすべてを江南系の特徴として捉え、祀神はワタツミの神とツツノオの神としている。大山祇(オオヤマツミ)を祀る南島系南九州の海人に連なると分類する。南島系海人は瀬戸内海にすぐに入らず、本州南岸を黒潮に乗って志摩から伊豆の三宅島、伊豆の三島に展開し、瀬戸内へは鴨氏と結びついて摂津から入るという入り方をしている。
この南島系の文化が、瀬戸内地方に影響を及ぼすのは、かなり後のこと、四~五世紀ごろ以降のことと考えられている。」
「祭神のオオヤマヅミ神は日本土着のおそらく南方系の海人の神です。」としています。

ゴンドラ型船のページには、「鵜飼は長江下流域から直接日本列島に伝播したと思われる」と紹介しています。
このゴンドラ型の船を辿ると日本人の源流にたどり着くように感じています。
  1. 2019/07/03(水) 21:03:00|
  2. 古代史全般
  3. | コメント:4

天空の湯を下りて三島の鰻

天空の湯を下りて三島の鰻
十谷温泉から下山後、メンバー全員が鰻好きなので、鰻を食べようとなることは目に見えていた。昨年寄った鰍沢の名店が定休日であることを確認して、十谷温泉で天然の鰻を求めたが、天然物は年間で、3匹ほどしか取れなくなっている。熊は、一頭で、多くの家にお裾分けがあるが、鰻はそういうわけにはいかないのです。
 そこで、帰路三島で、老舗うなぎ屋さんに寄ることにした。
予約はできないその店には、開店の11時過ぎに滑り込んだ。
狭い階段を上がると、二階は、テーブル4卓に、小上がりが設えてある。二組の先客があった。
以前「三島のうなぎ」で紹介したように、三島駅に近いから、新幹線の出張族の利用が多い。直ぐに満席となって、階段まで順番待ちの客が並ぶ状態。相変わらずの人気ぶりです。

程なくやってきた、上うな丼、うなぎの量が違う。器からはみ出んばかりの分厚い鰻、一度蒸してあるもののしっかり焼き色が付いていて香ばしい。そして身は柔らかい。ふんわりと脂が乗っている。
言ってみれば、焼き方は関東と関西の中間の様に感じました。
箸を入れるとしっかりしている。普段食べる関東のものは、ふんわりと柔らかく身が解けそうになるものが多いが、こちらは身が厚い分しっかりしているのです。値段の違いと言えばそれまでだが、粒ぞろいの鰻なのです。
蒸しの強い、ふわっとして蕩けるような鰻を食べつけた関東人には、インパクが強いです。

すみの坊


ところで、この店は、丼が主なメニュー、重ではない。私はうな重好みだが、ここのうな丼は別物です。それは、普通の店のうな丼に使うどんぶりは深いものが多く、ご飯が分厚く盛られると、タレが旨くしみ込まないことがあるのです。かといって、タレをかけすぎると、もういけません。
その点、ここの器は、盃のように横に少し広がって、ご飯がしっとりと汁がしみ込み、山椒の香りが程よくなるのです。
その上に、盃状の器からはみ出すほどの大振りのうなぎです。ご飯を食べたいとき、鰻を横に置くとまるで二段鰻を頼んだのかと錯覚するほどです。
凄い量なので、次に訪問するときは、並みにしようと思うのですが、つい大きい方に目が行ってしまうのです。食いしん坊なのです。

三島は、柿田川湧水があるように、富士山の水に恵まれて、うなぎの有名店が軒を連ねています。
江戸を目指した旅人は、箱根山を登る前に精をつけておこうとウナギを食べたのでしょう。私たちは、山を下りると鰻が食べたくなるのです。

  1. 2019/06/20(木) 15:11:52|
  2. 鰻遊記
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天空の湯 鰍沢十谷の旅

天空の湯 鰍沢十谷の旅
  先日、昨年に引き続き友人らと山梨鰍沢十谷温泉に行ってきました。
今回は初めての参加者もいて、一層賑やかになりました。
猪やクマの肉を食べた話しに釣られ、興味津々、最近のジビエ料理ブームで期待も大きかったようです。
この地は、30数年前から、何度か訪れていた馴染みの場所でしたが、今回はまた少し違う顔を見せ、よりこの集落が身近になった感じがしました。
旅人として知った集落が、何度が訪れるうちに仮住まいの寄留者の目になったのかもしれません。
遊歩道マップ

東海道線を富士駅で身延線に乗り換え鰍沢口へ、そこからは宿の送迎をお願いした。
熱海で駅弁を買い列車で食べながらのんびり鉄道の旅を楽しみました。車と違い同行者全員が同じ楽しみを味わえました。

ここの良さは、まず食事が素晴らしい。
山菜、天然のイワナ・ヤマメの塩焼はもとより、イワナの甘露煮、
 ・馬刺しや・猪(いのしし)鍋に熊の肉入り
 フキノトウの味噌漬けなどみな家族の手作り。
今年は、熊はあまり取れなかったそうで、猪があるので、山菜具沢山の猪鍋に少し熊の肉を入れましょうということになった。

宿の主人は、冬は猪や熊撃ちを生業にしている。いまは害獣駆除で出動する機会が多いという。この山里らしい生活をしている。
30年前、源流部に渓流釣りを案内された時、聞かされた話が思い出される。
「けもの道が随所にみられる。猪の道は斜めに山から谷側に続いている。鹿の道に迷い込むと危険だ。途中で飛んでいるから道が消えてしまうという。カモシカではなく、角が何段にもなる鹿だという。猪もいる。熊もいる。ツキノワ熊でなく、マークがない黒熊という種類だ。これはヒグマほどではないが、かなり凶暴らしい。」 

魅力その2 緑礬泉(りょくばんせん)
一つは、露天風呂から目の下の十谷集落の光景は、マチュ・ピチュのようだと行ったこともないのに感激している人がいました。
集落


まさに天空の湯なのです。大柳川渓谷には、渓谷を縦断するいくつもの吊り橋と滝が織りなす光景は、山梨の宝と言われる所以です。
湯も、少し温いと感じたときでも、体の芯までぽかぽかと温まる湯冷めをしない湯なのです。

集落の中をゆっくりと廻りました。平坦な部分に、家屋は集まっています。集落内を渡る風の心地よさ、高原の風の爽やかさを感じました。
集落の成り立ちにとって、良い風が通るということは重要な要素なのだと感じいった次第です。
多くの家は、門が施錠されていたり、廃屋になっていた。かつては150軒あった集落も、現在は50軒足らずになっている。限界集落なのです。
集落の真ん中に、庄屋と思しき長屋門の屋敷を発見しました。石畳の道を進むと、村の鎮守鈴鹿神社に続きます。祭神は、坂上田村麻呂とあります。
遊歩道


昨年4月にこの地を訪れたときは、祭りの準備していた氏子さんから、鎌倉時代から続く集落で、甲斐源氏の祖新羅三郎義光の城跡があり、大柳川の源頭は源氏山となっているなどを伺っていた。
宿もある宿場機能を備えた古い街道筋の集落のようです。
かつては、十谷峠越えの山道は、早川への生活物資輸送の重要なルートであった。

感慨深く見たものは、現役の火の見櫓でした。昭和26年、村人たちの寄付で、建てられたものでした。その頃、私も火の見櫓を見たことがありましたが、既に役割を終えて、子供の遊び道具と化していました。
ここの現役櫓は、メンテナンスも施され、警鐘乱打案内版もきれいに表示されていました。

神社と火の見

70年前に役目を終えた私の記憶の中の火の見櫓が、今またこの地で蘇ったような錯覚に陥りました。
「司馬遼太郎も『街道をゆく』の中で、「我々が持続してきた文化は、弥生時代に出発して室町で開花し、江戸期で固定、明治後崩壊を続け昭和40年前後にほぼ滅びた」と言っていましたが、ここではその明治が生きていました。

それは、もしかしたら、明治どころか江戸時代もそうだったのではと思えるほどに日本人の生活の基層を思い起こさせるものでした。

いい旅でした。時空を超える旅をしたように感じたのです。
  1. 2019/06/17(月) 19:50:41|
  2. テンカラ釣と温泉
  3. | コメント:2

奈良時代の鎌倉の開発と人口

奈良時代の鎌倉の開発と人口
 これまで奈良時代鎌倉を通っていた古東海道の道筋を西入口から東出口までを見てきました。
もう一度当時の鎌倉の道筋、「奈良時代~平安時代の鎌倉概念図」をご覧ください。
奈良時代原本v3名越破線

 奈良時代の道を赤で表示し、奈良時代創建の寺社を赤丸で重ねてあります。既に、長谷寺の創建は鎌倉期以降としました。この頃から、この長谷、甘縄地域も鎌倉に編入されたと捉えました。
その他の寺社については、奈良時代創建伝承を前提として考えています。
おおよそ、古東海道に沿って寺社が存在したことが分かります。小坪ルートには、寺社がないことは明らかですが、前回明らかにしたように、名越道と比較して古道としての優れていました。

 長善廃寺については、名越字御獄の地に建立し、後年医王山長善寺となった。
染屋太郎太夫時忠の創建伝承があります。
但しその長善寺もその後場所を変えて現在の辻の薬師付近に来たのは江戸時代、幕末に火事で焼失し、薬師堂は難を逃れたのです。
現在の名越坂を逗子に向かって左側、JR線路に沿った古東海道名越道との間が長善寺址と言われます。現在この地域内に大きな道がなく、一帯の利用が図られ、大きな施設があったことは、想像されれますが、長善寺も伝承の域を出ません。

もう一つ注目すべき点は、滑川の潟湖の存在です。
概念図の中ほどの水色の潟湖は、「滑川の河口に、滞った川の水が、潟湖を形成し、奈良時代に、郡衙が設置されるが、その選地の背景にはこの潟湖を港として利用する目的もあったとみられます。」
平安時代に源頼義が、この地に石清水八幡宮をお祀りした鶴岡八幡宮の元八幡が、この潟湖のほとりにあることの意味も同じでしょう、古東海道と海に繋がる潟湖を配した地ですから最重要地点でした。
古東海道小坪道・潟湖とも極めて重要な交通の要衝でした。
名越ルートにはない要衝地を持っていたのです。

 さて、今回の本題、奈良時代の鎌倉郡鎌倉郷の広がり、耕地面積と人口についてです。

『正倉院文書』の天平(てんぴょう)7年(735)閏(うるう)11月10日の「相模国封戸租交易帳(ふこそこうえきちょう)」には、従(じゅ)四位下高田王の食封(じきふ)として「鎌倉郡鎌倉郷参拾戸、田壱佰(いっぴゃく)参拾五町壱佰玖(きゅう)歩(ぶ)(後略)」とみえ、確実な文献上の「鎌倉」の名の初見とされている。
鎌倉郷は、高田王の食封として、30戸135町109歩を割り当てられていました。

租税免除分にあたる不輸租田29町109歩を差し引いた 課税対象の見輸租田は、約105町2段となります。 
その対象に基づいて租税率 3%が、科せられます。
3%とは、段当り/50束ですから鎌倉郷全体で1578束となり、これを 納官50%789束 高田王に給主50%789束に区分されたのです。


正倉院鎌倉郷朱線

鎌倉郡鎌倉郷 食封 從四位下高田王 30戸
これを表にすると次のようになります。

相模国封戸租交易帳鎌倉郷



さて原則一郷50戸、そのうち30戸が高田王の封戸であり、鎌倉郷全体を換算すると、50戸、225町歩になる。鎌倉郷全体で、225町歩の田があったということになる。
では、225町歩とはどのくらいなのか。
もう一度概念図を見てください、鎌倉郷の中心部の地図、緑の円内が鎌倉郷の中心部と推定しました。
この円内の面積は、約160町歩と推計されました。
円内のすべてが、耕作地とした時の面積です。つまり現在の鎌倉中心部のほぼ全域が開発された時に得られる耕作水田に一致します。それは、奈良時代の鎌倉郷は、既に現在とほぼ同じ程度に開発されていたことを指すのです。
鎌倉郷は、その周辺部の耕作可能地が含まれることで、合計で、約225町歩が鎌倉郷全体の耕地になります。

当時の鎌倉郷中心は、この円内と思われます。長谷、甘縄は、まだ鎌倉郷には入っていなかったのです。長谷、甘縄は、平安時代末期に大庭御厨に入っていた可能性もあるのです。
前回触れました南は小坪までが鎌倉になります。それら周辺地域を耕地に含めれば、約225町歩になるのでしょう。当面の推定はここまでとします。

次に、鎌倉郷の人口はどのくらいいたのでしょう。
奈良時代、平安時代の人口が分かる資料は見当たりません。
そこで、東国近傍の奈良時代の戸籍、下総国葛飾郡大島郷の戸籍から見る人口を推定します。

先ず、結論から言いますと、奈良時代の鎌倉郡鎌倉郷50戸、鎌倉郷の人口は、450人程度と推測しました。
同じ時期の下総国葛飾郡大島郷の戸籍の研究が進んでいますので、この人口を参照しました。
 大島郷との比較、「里と房戸を廃止して郷の組織だけを残す郷制に切り換えた。(●●郷=〇〇里、房戸=戸)この戸籍によると大嶋郷は130房戸、1191人(甲和里は44房戸、454人、仲村里は44房戸、367人、嶋俣里は42房戸、370人)で、1房戸あたりの平均人数は9.1人だった計算になる。」

ところで、一方中世都市鎌倉の鎌倉時代、最盛期の人口を5万から10万人とみなされています。
庶民の人口5万人とすると、奈良時代の100倍の計算になる。日本の首都になったのだからそのくらい増えてもおかしくはない。
では平安時代末期の鎌倉の庶民の人口は、「国府所在地以上の、相模国の事実上の中心であった」とみられることから、奈良時代の4.5倍程度はいたのではないか。あくまでも素人の想像の範囲だが・・・・。

これまで見てきたように、奈良時代の鎌倉は、想像以上に賑やかな村のようです。
これはまさに、現在の鎌倉の中心部は、奈良時代に十分に開発し尽くされるほどに、重要な地域だったことに他ならないのです。
交通の要衝であるほかに、東国支配の拠点であったと考えています。
この点については、「東国の鎮守府だった鎌倉」でもまとめましたので、ご覧ください。

鎌倉が、奈良時代、特別な地域だった証でもあります。

逗子鎌倉拠点東国支配


逗子に大型古墳二基が発見され、4世紀後半の造営とされました。ヤマト王権の影響を強く受けたものとされ、王権の目的は、房総や北関東に睨みを利かし、前進基地の機能を持たせました。
逗子の古墳に登ると、ヤマト王権の東国支配の意図が良く分かります。

「ヤマト王権東国侵攻の図」を見てください。東に房総半島に睨みを利かし、北は足下に武蔵国倉樔(後の久良岐郡)に接し、橘花(川崎)、多氷(多摩)と続きます。後の武蔵国造の乱後に王権は、これを屯倉として確保します。その意図は明らかです。
多摩川を制し、武蔵国、上野国の東京湾進出を妨げ、けん制、侵攻ルートを確保したのです。

  同時に上総・下総と侵攻した王権は、武蔵との境の葛飾郡を手中に収め、中央を流れ、武蔵、上野に接する太日川(現在の江戸川)を抑えたのです。これも武蔵国、上野国をけん制し、太日川を制することで、その勢力拡張を妨げたのです。
こうして太日川と多摩川と相まって武蔵国、上野国を包囲することに成功したのです。
5世紀の弓角による古代のカツオ釣り」で紹介した「高橋氏文」にある「景行天皇は葛飾野へ行幸して、狩りをされた。」唐突に見えたこの葛飾巡行の記事の意味することの背景が分かった気がします。王権の侵攻作戦だったのです。逗子・鎌倉が軍事的に要衝地点であったということです。武蔵倉樔(久良岐郡)を荘園としたのも、逗子・鎌倉に接していることが最重要ポイントだったのです。
こうすることで武蔵国、上野国の海へのルートを封鎖したことになるのです。

  この逗子・鎌倉地方は、王権の直轄地として、鎌倉別と呼ばれました。
倭建命の子、足鏡別王は「鎌倉之別」の祖と記されています。「鎌倉之別」の王は、鎌倉に屋敷を設けたと思われます。この地方の中心地だったのです。逗子に古墳群を造営し、鎌倉別としたところに、大きな意味があるでしょう。
この古墳時代の東国経営の拠点化は、鎌倉は、特別な場所だったのです。このことは、平安時代以後も続くことになるのです。

先ほど述べました、奈良時代の開発ぶりからも重要な拠点であったことは推定できますが、古墳時代の王権が目指した東国支配の要として、まさに扇の要のように逗子・鎌倉の位置づけていたことだけではなく、あたかもその後の鎌倉の位置づけからも鎌倉の将来を規定していたように見えるのです。
古墳時代の王権の地政学的洞察力には舌を巻くものがあります。
  1. 2019/06/08(土) 13:05:39|
  2. 逗子・鎌倉の古代史
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