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相模湾 海から見る風景

逗子、鎌倉の海を眺め散歩で感じたことや、神奈川の古代を作った人々に思いを馳せ綴ります。

再びの平安海進

再びの平安海進

『今世紀末までに世界の海面が2メートル上昇するという新たな予測が「米科学アカデミー紀要(PNAS)」に発表された。国連(UN)が基準としている予測の倍となる上昇幅だ。』
1000年前にも世界の海面が1メートル上昇した。日本はちょうど平安時代、平安海進と呼ばれた。詳しくは「平安時代の鎌倉Ⅱ」「鎌倉郡衙の津・港はどこにあったか」を参照ください。
再びの平安海進ですが、80年後の平安海進は、かなり大きな影響が予測されます。

1000年前の平安海進をのぞいてみましょう。自然災害が大きな社会的問題を引き起こしていました。
砂丘を貫通して海へ注ぐ滑川は、波浪による河口閉塞により、しばしば平野部に湛水。
下馬四つ角付近から海水が侵入し、平野部を呑み込み、鎌倉郡衙の倉庫も襲われた。
平安海進模式図

『「中世都市の環境」河野眞知郎から見てみましょう。
中央平野部のところどころで7~9世紀の居住跡も見出されている。
こうした人類活動は10世紀末ぐらいまででその痕跡を見出せなくなる。今小路西遺跡の郡衙正倉の上面には砂質粘土の薄い堆積が認められ、その層から11世紀には降らないと思われる土器が出土している(鎌倉市教委1993)。おそらく中世に至る間に洪水(冠水と言うべきか)が何回かおきていたのかもしれない。砂丘を貫通して海へ注ぐ滑川は、波浪による河口閉塞により、しばしば平野部に湛水をおこす。』
郡衙正倉付近は11世紀には降らない時期までに冠水がたびたびあったと言います。この付近の標高は、神奈川県鎌倉市御成町鎌倉郡衙標高7.5m~8.5mとみられます。
平安海進1mの海面上昇の影響は、ここまで及んでいたのです。
「波浪・海進による河口閉塞により、しばしば平野部に湛水をおこし、鎌倉郡衙も消え、人口も減少していた。そこには形骸化した律令体制と入れ代わるかのように立ち現れる、新興の坂東武士の姿がある。これが10世紀頃の鎌倉とみられるのです。」
「10世紀代平安時代の鎌倉は、律令体制の崩壊から社会体制が崩壊し、鎌倉郡衙そのものが脆弱になったところに、この自然災害に直面したのです。大混乱をきたしていたことは間違いありません。これが古代集落の終焉を迎えた鎌倉の姿だったようです。疫病が発生していたことも頷けるのです。」
錨郡衙津想定

海水面変化による津の移動
上の図を見てください、⚓→⚓と表示しました。津想定の位置が、時代の経過とともに移行したとみています。
平安海進のグラフを見ても、10世紀初から11世紀にかけて50cmの海面下降が見られます。水深が浅くなる変化によって、津・港が下馬四つ角付近から元八幡付近に移行したと想定しました。元八幡をこの地点に潜に勧請したのも、水深の変化に対応したと思われます。同時に、元八幡・八雲神社を結ぶ方向に源氏の重要施設があったと推測します。

平安海進は、1m程度の海水面の上下ですが、鎌倉郡衙周辺まで海水が達したことが発掘調査で明らかになっています。実際には、1mをはるかに凌ぐ数倍の海水が、押し寄せていたのです。

海面が2m上昇するというのは、平安海進の1mの2倍になります。
80年後に1000年前と同等以上のことが起きないとも限りません。
自然災害が、疫病の蔓延を招き、同時に古代と中世を切り替えるスイッチにもなり社会変革の源にもなった可能性もあったのです。
現在のコロナ禍を契機とした社会変容も新しい時代の予兆ともいえるものが潜に隠れている可能性もあるのでしょうか。自然災害や疫病のもたらす影響に注視したいです。
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  1. 2020/08/04(火) 08:39:23|
  2. 逗子・鎌倉の古代史
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疫病退散の神事

疫病退散の神事
「疫病退散の神事」を1000年近く行っている鎌倉大町八雲神社、コロナ禍で夏まつりもごく限られた神事のみの執行となった。
八雲神社の夏祭りは、八雲神社創建の永保年間(1081年~1084年)から続く古い歴史を持ち、当時は鎌倉祇園会(かまくらぎおんえ)という御霊会があった。神輿の御休所が大町村と乱橋村におかれ、神幸は大町・乱橋・小町・雪の下村大蔵町の四か所で行われたという。このゾーンは、じつに鎌倉幕府が町屋を許可した場所の多くが入っている。神社創建当時の鎌倉中心部を御輿が練り歩いていたようだ。
ところで、良弁僧正物語の中で、『大町四つ角の聖域性
大町四つ角は、古東海道が通った奈良時代から重要な場所であったのです。西国や、東国・房総へ行きかう人々の交わる場所でした。「疫神や穢れの侵入を遮断する」役割も担った場所でした。早くから鎮守、結界が置かれていたことが想像されます。』と紹介しました。

先日その境界の「疫病退散の神事」が、今日まで執り行われている模様が、ネットニュースで流れていた。
『大自然に囲まれのどかな風景が広がる福島県石川町中田の八又地区。
道路の上には…藁人形が吊るされていた…

勇ましい表情のこの藁人形は一体…
八又地区・大野芳治さん:「これはここ八又地区で毎年1回、しめ縄を張るんですけど、“疫病退散”の神事というか行事なんですね」
福島疫病注連縄

疫病退散の神事として八又地区に300年以上前から伝わる「年縄張り」。
地元では「としなはり」と呼ばれている。2020年は7月5日に行った。』
こういう神事が、300年以上続けられている、如何に疫病が民衆から恐れられていたか、京都の祇園祭も同様だ。
今日わたくしたちが、手洗い、マスクなど最低限の対策を怠りなく励行していることもそうだろう。
「人事を尽くして天命を待つ、事の成否は人知を越えたところにあるのだから、そんな結果になろうとも悔いはない」という、当時の人びとの気持ちが伝わってきた。
  1. 2020/07/22(水) 09:58:55|
  2. 逗子鎌倉葉山散歩
  3. | コメント:0

散歩の途中旨い刺身を見つけた

散歩の途中旨い刺身を見つけた

最近鎌倉で食事をする機会が何度かあった。気軽に入れる店を見つけた。
これまで、この種の店は覗くのを憚れるほど一人客を嫌うものだが、コロナ禍の今、昼時に気に入った店に入れるようになった。
出てきた刺身盛合わせは、豪勢だ。量は一人で食べられないくらいだ。
何と言っても彩りが素晴らしい、美しく盛り付けられて食欲をそそる。
赤・黄・緑・白・黒と見事に飾られ、マグロの赤身に大葉が添えられ、赤身を引き立たせる盛り付けの妙がある。
刺身定食

これだけでも十分なのだが、脂ののった感じのする切り身はつい箸が延びる。
最初に箸をつけたのは、鮮やかな赤色、マグロ中トロ、二切れづつ載っているからまずは一切れを頂く。
やはりマグロはおいしい、脂もあって甘みを感じる。
鰆はもう時季ではないがと言っていたが、美味しい。この写真には、鰆は載っていません。(店のホームページから借用)
近年の急激な温暖化で、相模湾では6月での盛期が、4月になり今は2月に漁期となったサワラ。まさに春の魚になった。どうして脂がのっている。

カマスもいいが、タチウオの炙りは、ちょうど良い脂の乗り、炙ったからいいのだ。
先日焼き物で大きな三浦のカマスを食べたが、素晴らしかった。刺身はどうか。
上品な味に仕上がっていた。

サーモンは定番の味がする。
ヒラマサは、一番期待したが、味を思い出せない程度の影の薄さ。

シラスを最後に載せます。と言ったが、そこで待ったをかける。シラスは、特に要らない、他に代わるものがあればそれでよし。
シラスは、新鮮なシラスを食べる機会がいくらでもある。それに漁師の中には、シラスの乱獲がたたり、魚そのものが獲れなくなったとの嘆きが聞こえてくる。目の細かい網で多くの稚魚を一網打尽にしていることは確かだろう。

そして前菜がさらに六品ついた。手が込んでどれもきめ細かい細工を感じる。

鎌倉には思いもかけずいい店がある。普段は観光客でごった返すが、コロナ禍の僅かな機会に恵まれたのだろう。

それにしても観光客は、行列に耐えながらこんな豪勢なランチにありつけているのだろうか。コロナもたまにはいい所もあるものだが、俄かに信じ難い経験ではあった。
  1. 2020/07/19(日) 19:08:25|
  2. 逗子鎌倉葉山散歩
  3. | コメント:4

鎌倉郡衙の津・港はどこにあったか

鎌倉郡衙の津・港はどこにあったか
古代の鎌倉は郡の中心であったとされます。昭和60年に御成小学校の校庭から木簡が発見され、「糒五斗天平五年七月十四」「郷長丸子□□」と文字が書かれていました。大型の建物跡も発掘され、御成小学校があったところは、奈良時代の郡衙(役所の中心)跡とされています。
古代のものは大型の掘立柱建物群が「コ」の字形に配置されており、その東側にも複数の建物の跡が確認されている。これは官衙とそれに付属する舎屋・倉庫群とみられている。付近からは733年(天平5年)の銘が入った木簡も出土している。その上には平安時代の倉庫とみられる遺構も確認されており、奈良・平安時代に利用されたと推定される。
郡衙施設は郡司が政務にあたる正殿・脇殿のほか、田租・正税出挙稲を保管する正倉、宿泊用の建築などから構成される。
7世紀に置かれた郡司・郡衙は10世紀には姿を消すことになる。「国」「郡」「里」制は実質的には変質し、発掘調査でも「郡衙」として知られたところは10世紀頃に姿を消していきます。
古代の鎌倉郡には、沼浜郷、荏草郷、鎌倉郷、梶原郷、崎立郷、方瀬郷、尺度郷、大島郷の8郷が存在したという。

今回は、鎌倉郡衙の「津」推定地を考えてみました。
考えるにあたり、「古代鎌倉郡家における“津”を巡る一考察」 押木弘己(文化財課主任調査員)の論文を参考にさせてもらった。
以下引用開始
大上周三氏は「元八幡西40m奈良時代の建物跡が発掘されている。これは、鎌倉郡衙の津に想定されていたが、郡衙から700mと少し離れている距離の問題からもっと近い所に津があったはず」としている。
また大上氏も斎藤直子氏らによる中世潟湖の復元案〔斎藤 1999 など〕を参考に材木座の旧潟湖(ラグーン)の古代まで遡る可能性を指摘し、その北側に東海道駅路が走っていたと想定している。筆者(押木氏)はこれと下寺尾官衙遺跡群における川津隣接建物との間に類似性を見出し、加えて郡庁の東方 300mと至近に位置する点を鑑み、鎌倉駅西口の当エリアに鎌倉郡家に付属する津(川津)があったと推察する。

地形を観察した上で関連する発掘成果を抽出し、その可能性を探ってみる。
(1)微地形の検討 図 11 は、フリーウェアの GIS ソフト「カシミール 3D スーパー地形セット(試用版)」で描画した鎌倉市街地の標高色別地図をベースに、郡家近辺から南東の下馬交差点方面へと広がる微低地を表現したもので、行論に係る発掘地点もプロットしている。
鎌倉微地形カシミール


この低地帯は下馬交差点付近から南東に向け扇形に広がり、先述した古代~中世潟湖の痕跡地形を鮮明に表している。
引用終了

郡家近辺から南東の下馬交差点方面へと広がる微低地滑川に沿って、点線に囲まれた扇形が、潟湖の痕跡です。9~10世紀の潟湖の海運が最も盛んな頃でしょう。
この滑川の潟湖については「平安時代の鎌倉Ⅱ」で検討していますのでご覧ください。
「中世都市の環境」河野眞知郎から見てみましょう。

『中央平野部のところどころで7~9世紀の居住跡も見出されている。
こうした人類活動は10世紀末ぐらいまででその痕跡を見出せなくなる。今小路西遺跡の郡衙正倉の上面には砂質粘土の薄い堆積が認められ、その層から11世紀には降らないと思われる土器が出土している(鎌倉市教委1993)。おそらく中世に至る間に洪水(冠水と言うべきか)が何回かおきていたのかもしれない。砂丘を貫通して海へ注ぐ滑川は、波浪による河口閉塞により、しばしば平野部に湛水をおこす。』
錨郡衙津想定

①郡衙正倉でもおそらく中世に至る間に洪水が何回かおきていた。
②砂丘を貫通して海へ注ぐ滑川は、波浪による河口閉塞により、しばしば平野部に湛水。」
①と②の洪水、湛水を引き起こした海面上昇による浸水とは何か、海水面上昇のシュミレーションソフト「Flood Maps」で描画した「西暦1000年頃予測」が上の予測図です。
海水面の上昇により、海水が低地を中心に侵入してくる様子が分かります。
これはまさに、先の押木弘己論文の「この低地帯は下馬交差点付近から南東に向け扇形に広がり、先述した古代~中世潟湖の痕跡地形を鮮明に表している。」と同じことを描画しているのです。

平安海進と呼ばれる海水面の上昇は、奈良時代~主として平安時代に襲いました。世界的な現象です。西暦700年頃の200年間上昇が続き、現在の水面に達した後、50cm水位が下がっています。潟湖の水量も少なくなった時期と思われる。それを表しているのが、下の平安海進海水面模式図です。
平安海進模式図

1m程度の海水面の上下ですが、鎌倉郡衙周辺まで海水が達したことが発掘調査で明らかになっています。実際には、1mをはるかに凌ぐ数倍の海水が、押し寄せていたのです。
私見ながら、奈良時代の郡衙の津・港を想定しました。それは、古代東海道の南に接し、航路となる滑川にも接した地域となります。それは、現在の下馬四つ角付近と想定しました。
滑川は、航路として水深も確保できていたでしょう。
西暦1000年頃の先の想像図に、奈良時代郡衙の津、港を落とし込みました。津は⚓印で表示しました。
横須賀線の西側で、古東海道の南に接した地域となります。
今回その想定地を探して歩いた。下馬四つ角の琵琶橋の下に川があった、滑川に西から合流。
これは滑川を航路にして、郡衙に最も近い上陸地点であれば、古東海道に接したこの下馬四つ角である可能性がかなり高いと歩いて感じられた。

海面上昇と津
海面上昇は、水深が深くなることで、航路の確保が可能になります。しかし水位が一定しないことは、運航に大きな影響があったと思われます。港湾施設での越水は、荷物の上げ下ろしに苦労したでしょう。
奈良時代から平安時代初期までは、津の場所も想定した下馬四つ角周辺だったでしょうが、その後の海面の変化によって、津の場所が変化したと思われます。
たとえば、元八幡の建立です。
元八幡(由比若宮)は、1063年(康平6年)8月、河内源氏二代棟梁の源頼義が前九年の役の勝利に感謝するため、源氏の氏神だった京都の石清水八幡宮を由比郷に勧請して創建した社です。潟湖の北岸にあたります。この時代、津の機能を十分に果たした港湾施設がつくられたと思います。古東海道に接し、元八幡と源義光創建八雲神社を結ぶ延長線上に源氏の重要な施設があったのでしょう。
この元八幡は、源氏にとって、ランドマークだったとみられます

鎌倉郡衙の終焉
7世紀に置かれた郡司・郡衙は10世紀には姿を消すことになる。
鎌倉郡衙の姿を消した原因は、一つには、「律令制の崩壊により古代社会の秩序が崩れ、社会体制の変化、社会秩序の決定的崩壊」によるでしょう。
また鎌倉郡衙の場合、他の地域の「古代集落の終焉」の様相とはまた違う側面がありました。
それは、平安海進による鎌倉郡衙の正倉の洪水、平野部の度重なる湛水がその衰退を早めたとみられます。
  1. 2020/07/13(月) 19:35:53|
  2. 逗子・鎌倉の古代史
  3. | コメント:0

小柱のかき揚げ

小柱のかき揚げ

鎌倉小町の天ぷら屋で小柱のかき揚げ丼を食べてきた。
何度かここで天ぷらを食べているが、初めてかき揚げを食べることができた。
今日も初めは、かき揚げはできないと言っていた、注文後に戻ってきて、「もしよろしければですが」と前置きして、かき揚げができるようです。そうであれば、否が応でも注文します。

かき揚げに野菜天がついているという。
その日によってできないときがある。以前も奥さんからは、かき揚げはできないと言われたことがある。
今日はラッキーであった。
やってきたかき揚げ丼は、ごま油で揚げた浅草の老舗の天丼に近い色。
小柱がたっぷり入っていた。
小柱の上品な色白、淡泊だが、仄かな味わい。これだけの小柱のかき揚げ暫く食べていなかった。
小柱かき揚げ

小柱のかき揚げは、家庭で作ると手間がかかるし、材料がまず手に入らない。
砂を出す下処理はもう職人に任せるほかはない。
池波正太郎の「鬼平犯科帳」に出てくる天ぷら蕎麦は、小柱の入った天ぷらだったという。
当時は存分に手に入ったのだろう。今では考えられない、貴重なものになってしまった。
職人のいい腕も見せる場面が少なくなってしまった。
本覚寺蓮

女将も言っていたが、今日は小柱が手に入った、店頭のメニューに書くとすぐなくなってしまうという。ダメもとで聞いてよかった。なんか今日はそれだけでよかった。
年配の三人連れが、私の隣の席に着いた。さっぱりしたてんぷらは、年寄りも食べやすい。
6月から営業していると聞いて、早く来ればよかったと言っていた。
看板小町通り

小町通りも少し年寄りの姿が増えてきた。
街も少しづつ元気になっていくように感じる。
今日は時折小雨の混じる中、鎌倉小町迄の散歩だったが、随分と良い思いをした。
  1. 2020/07/07(火) 17:37:15|
  2. 江戸の味舌つづみ
  3. | コメント:6
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