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相模湾 海から見る風景

逗子、鎌倉の海を眺め散歩で感じたことや、神奈川の古代を作った人々に思いを馳せ綴ります。

かき揚げ

かき揚げ

昔母親に作ってもらったかき揚げは旨かった。
たいした材料のなかった頃のこと
玉ねぎとイカのゲソで十分だった。
長じて、小柱のかき揚げが好きになった。
しかし揚げ方なのか、小柱の旨みが出ないことがある。
いつも昼食で訪れていた寿司屋のランチ、小柱のかき揚げだったが、ある時
イカゲソの話に及び、昔大好きだったことを話すと、早速試すことになった。
ゲソの旨味と玉ねぎの甘みがある。その店のかき揚げの定番になった。

ゲソの場合は、色合いが少し黒っぽくなる。小柱の上品な色白が出ない。淡泊だが、仄かな味わいを大事にするか、はたまた色黒だが味の濃さに重きを置くかの違いがある。
小柱のかき揚げは、家庭で作ると手間がかかるし、材料がまず手に入らない。
砂を出す下処理はもう職人に任せるほかはない。

三つ葉掻き上げ


かき揚げの新しい味を求めて、小エビの刻みを試してみた。蕗の薹やタラの芽が店頭に並ぶ季節になって、これも添えることにした。
蕗の薹は苦みがいっぺんに気分を変え、季節がまた巡ってきた喜びを味わうことができた。
三つ葉を混ぜた掻き上げは、色白に仕上がり、刻んだ小エビは味がよく出て、胃腸にも優しく気に入っている。

見突き漁の漁師に聞いた話だが、サザエのかき揚げも旨いという。確かに小柱を連想させるので、考えてみたいが、下処理が面倒だと料理人の評判はいま一つです。

時代に合わせ、手に入りやすい、獲れるものが旬と考えるのが一番だろう。
八方の意見をうまく掬い上げての掻き上げ、これぞ全く味わい深い料理でしょう。
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  1. 2020/02/17(月) 17:44:05|
  2. 江戸の味舌つづみ
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良弁僧正物語⑧古代鎌倉の境界を守護した漆部一族

良弁僧正物語⑧
---古代鎌倉の境界を守護した漆部一族---

これから述べることは、これまで書いてきた「良弁僧正物語」の中で、廬舎那仏造営に大きな貢献を果たした良弁僧正・漆部直伊波兄弟の血脈が、鎌倉大町八雲神社宮司家に伝わったとしました。
今回は、このことについて、更に詳細に述べます。一部重複しますが、良弁僧正物語⑧は、これまでの本編を補強するものです、不明な点は本編参照ください。
「良弁僧正物語」は、鎌倉大町八雲神社宮司家が、古代氏姓漆部姓を伝えていたことが、発端だったのです。このため、もう少し、八雲神社のことを書きたかったのですが、編成が歪になるために、全体とのバランスをとったのです。その点ご了承ください。

ここでは、「古代鎌倉の境界を神社で守護した漆部一族」と題して、古代鎌倉における古東海道の東西両境を神社で鎮護した染谷時忠とその末裔の漆部氏についてまとめます。

奈良時代の鎌倉に「由井の長者」と呼ばれる染屋太郎太夫時忠という伝説上の人物がいます。実はこの人物が、宿禰になって東国鎌倉に赴任した相模宿禰伊波でした。伊波は良弁僧正の弟、東国任地での姿だったのです。
「江ノ電「由比ヶ浜駅」近くの染屋大夫時忠邸址の碑文に、「染屋太郎大夫時忠は藤原鎌足の玄孫に当り、南都東大寺良弁僧正の父にして、 文武天皇の御宇より聖武天皇の神亀年中に至る間(697から729)、鎌倉に居住し、東八箇国の総追捕使となり、東夷を鎮めた」とあります。
歌舞伎、浄瑠璃などで演じられ「鷲にさらわれて、東大寺の二月堂前の杉の木に引っかかっているのを、義淵に助けられて育てられ、高僧となった」良弁親子の話として有名です。
「『大山縁起絵巻』は 相模国の国司だった太郎太夫時忠夫妻には子がなく、如意輪観音像に祈願して良弁が誕生。ところが、生まれて間もなく金色の鷲にさらわれてしまう。」
『大山縁起』(真名本)は、良弁は相模国由比郷の人で、僧になる前の姓は漆部氏。優れた将軍の漆屋太郎大夫時忠の子であると伝えている。
つまり「 相模国の国司、姓を漆部氏、良弁の血縁。染屋の姓は漆部からきている。」だというのです。
この条件を満たすのは、
「神護景雲2年(768)相模宿禰姓を賜り、 相模国の国造になった漆部直伊波」でしょう。
漆部が染屋に変化したのは、「漆」の略字である「柒(しつ)」を「染」と写し間違えたとする説が十分に説得的です。

これは、廬舎那仏造営のために、相模国の商布年間生産高の3倍にあたる寄付を行い、貴族の階段を昇り始め、相模宿禰・国造まで上り詰めた立志伝中の人物の煌びやか姿を目の当たりにした相模の人の驚きの表現だったのでしょう。廬舎那仏を作り上げた傑出した人物良弁僧正との成功伝説に尾ひれがついたものでしょう。染屋太郎太夫時忠と漆部直伊波は、同一人物とみてよいでしょう。良弁僧正と伊波は兄弟であったとみています。

律令下の国造は、地方の神祇祭祀を統括することを主な任務とする役職でした。律令以前の土着豪族の世襲による国造ではなく、朝廷への貢献、献物叙位は大仏造営期地方豪族らに外従五位下などを授けていたといいます。 まさにこの点で、立志伝中の人物と言えるのです。
当時の国造は、いわゆる「律令国造」と言われ、律令以前のそれとは違い、その職掌も神祇祭祀を掌ったと言われます。大化の改新以降は、地方における国の代表機関は国司になり、 国造は神官職になっていきました。
相模宿禰は、地方における国の代表機関相模国司とはちがうのです。
「相模国は7世紀に成立した相武国造(さがむ-)の領域(相模川流域、県中央部)と師長国造(しなが-)の領域(酒匂川流域と中村川流域、県西部)を合したとされる。さらに、ヤマトタケルの子孫である鎌倉別(かまくらわけ)の支配する鎌倉地域と三浦地域も加わる。」

漆部氏建立二社


甘縄神明宮の建立
「和銅三年(七一〇)八月行基の草創により染谷太郎時忠が山上に神明宮、麓に神輿山円徳寺を建立、後に寺号を甘縄院と名付けたことに始まるという。また源頼義公が当社に祈願して八幡太郎義家を当地に生み、康平六年(一〇六三)には当社を修復、永保元年(一〇八一)には八幡太郎義家公が当社を修復したという。
「吾妻鏡」によれば、伊勢別宮として源頼朝公が崇敬し、文治三年(一一八六)十月、社殿を修理し、四面に荒垣及び鳥居を建てている。また建久五年(一一九四)までに頼朝公は三度、政子の方は二度、実朝公は一度参詣している。
「相模風土記」には「神明宮、里俗甘縄明神と唱う」「別当臨済宗甘縄院」とある。甘縄院 神輿山と号す、臨済宗(京都妙心寺末) その後は衰微し江戸時代中期(1700頃)になって京都妙心寺の独園和尚が甘縄院という別当寺を造営し中興したといわれます。
(甘縄院は明治初頭に廃寺)
明治維新の神仏分離により、別当甘縄院は廃絶し、神明宮は明治六年村社に列格された。明治二十年五月、五社明神社を合祀し、明治四十年四月神饌幣帛料供進神社に指定された。
昭和七年社号を甘縄神明神社と改称した。常には里人慣習で甘縄神明社宮と呼称している。」以上神奈川県神社庁

祭神
祭神は、上記「伊勢別宮として源頼朝公が崇敬」とあるように、この頃既に、天照大神であった。更に『大和朝廷は、天照大神信仰が生じた6世紀半ば以降、「三輪山の神に代わって天孫が、国を治めるとした。国譲りの物語を出雲氏の協力を得て作った。』とする武光誠説もあり、大和朝廷の考え方は、中央官人の相模宿祢(漆部直)には徹底して認識されていたでしょう。建立時から祭神は天照大神は変わらない可能性もある。鎌倉権五郎景正の領地だった頃に、大庭御厨に編入され、祭神が変わったとする説がありますが、どうでしょうか。
頼義、義家の修復の時期に重なり、大庭の御厨に編入が入り込むのは難しいとみています。

鎌倉の西境界
鎌倉の西の境界は、甘縄付近の河川が境界になっていたと考えられます。
治承四年(1180)に北条政子が鎌倉入りの際、日並により数日、川辺の民家に逗留した様子から、稲瀬川の辺りが当時は鎌倉の西の境界だったようです。稲瀬川は長谷の辺りを南北に流れていた川です。
甘縄神明社の古い参道は、古東海道稲瀬川の橋からまっすぐ伸びています。川は途中西に折れ、長谷を北に向かいます。

稲瀬川石碑


万葉歌碑は、甘縄神明社境内に立っています。
『碑文    鎌倉の み越の崎の石崩の 君が悔ゆべき心は持たじ 
歌の意 鎌倉の見越の崎の石崩のように、あなたが悔いるような心は           決して持ちません。』
神明社の裏山を御輿が嶽というところからこの山との説がある。またこの﨑は稲村ケ崎とする説もありますが、「みこしがたけ」は鎌倉を代表する枕詞ともいえるもの、鎌倉の内(御輿が嶽)から見た光景を歌ったとみるべきでしょう。この歌はこの甘縄付近発祥とみてよいでしょう。「神輿山円徳寺」にも符合します。


「八幡太郎義家が鎮守府将軍となって鎌倉に下向した時、権五郎景政は大倉ヶ谷の館を将軍に献上し、 新たに館を建て移った。そこは稲瀬川の西にあり、鎌倉の地を将軍に譲り、鎌倉外に退いたとみるべきだろう。新たな館は、今の御霊神社付近との説がある。」
「源氏は、頼義以来神明社を鎌倉鎮守とし、修復を繰り返し、稲瀬川の西を境界としてきた。」
このように鎌倉を指していた甘縄神明社は、正しく鎌倉の内の境にあったのです。鎌倉の境を護っていたと言えます。

鎌倉大町八雲神社 
鎌倉大町にある八雲神社宮司漆部氏小坂家は、神社宮司家として鎌倉最古の家系となります。小坂家は、永保年中(1081-1083)年以来の宮司家です。
新編相模国風土記稿 『大町祇園天王社として社宝△假面一面(猿田彦の面にて、栗毛塗裏布張なり、六代踏吉定漆部常卿守常等の數字を記せり)△古文書二通△神主小坂播磨 吉田家の門人』と載せている。
小坂氏は、苗字のほかに古代の氏姓制度の部民の漆部(ヌリベ)氏を名乗り、伝えています。
相模国の漆部氏といえば、姓(かばね)の「直(あたい)」を得て、奈良時代に宿禰に任じられた相模国造、漆部伊波の家系があります。

沿革、平安朝時代永保年中(一○八三)新羅三郎義光公の勧請と伝う。
当時「後三年役」に陸奥国にて苦戦を伝えられた兄八幡太郎義家のもとに、助勢のため赴く途中鎌倉に立ちよられ、たまたまこの地に悪疫が流行し住民が難儀しているのを知り、これを救わんがため「厄除神」として霊験の聞こえた京都の祇園社を勧請し篤く祈願されたところ、たちまち悪疫退散し住民は安堵し難を救われました。
八雲神社注連縄


鶴岡八幡宮境内の土壙墓
鎌倉の平安時代末期、源氏一族を襲った忌まわしき事件がありました。
ちょっと長いが、「都市鎌倉と坂東の海に暮らす」武士の都 鎌倉 馬淵和雄より引用します。
「1982年、鶴岡八幡宮境内の鎌倉国宝館収蔵庫建設に伴う発掘調査で、成人男女一体づつが埋葬された土壙墓が検出された。 (中略)
この男女の合葬墓にはただの比翼塚というのではない、不思議な点がある。(中略)骨の観察所見では共に外傷はなく、病変も認められないという。結局のところ、あり得る要因としては、骨に痕跡を残さない疫病によって、夫婦が時をおかず死亡したとみるのが最も穏当ではあるまいか。
 十二世紀の前半、もしくは初頭―と私は考える―相次いで病死した、源氏一族の壮年夫婦とは誰と誰か。(中略)
この墓の造営主体について、柳田國男のいうように、日本では西北方向が祖霊の去来する方角だとされ、葬地も居住域の西北に設けられることが多かった。
だとすると、小林郷北山についても、大倉一帯、あるいはその南方方面に住む源氏一族を想定し、彼らにとっての西北に位置する葬地と考えるべきではなかろうか。」

以上の見方が正しいとすれば、12世紀の初頭に源氏一族の壮年夫婦が、疫病によって相次いで病死し、夫婦一緒に埋葬された。源氏にとっては重大事件が起こったと見るべきでしょう。大町八雲神社の疫病に関する創立由緒は、源氏一族をも巻き込む歴史的事実となっていたのです。
源氏の邸宅を中心として戍亥隅方向に葬り、対角線上に疫神や穢れの侵入を遮断する八雲神社の配置とみえます。

夫婦葬地軸線


大町四つ角の聖域性
大町四つ角は、奈良時代から重要な場所であったのです。西国や、東国・房総へ行きかう人々の交わる場所でした。「疫神や穢れの侵入を遮断する」役割も担った場所でした。早くから鎮守、結界が置かれていたことが想像されます。
大町八雲神社の前身は案外早くからこの地に鎮まっていたことも考えられるのです。
拝殿本殿も、村の中心を向いているのです。

二人の漆部氏
相模国内の同じ漆部氏、しかも同じ職掌神祇祭祀を掌る神職、もっと言えば、同じ鎌倉郡内鎌倉郷です。となれば、真っ先に、「宿禰となった漆部伊波一族の命脈がこの八雲神社漆部家に残り、この宮司家を継承してきた」と思い浮かびます。
この一族も他の豪族同様平安時代中期には没落していきますが、良弁僧正兄弟の血脈が、鎌倉大町八雲神社宮司家漆部氏に伝わったのです。

「漆部一族とした理由」については、これまでも何度か述べていますが、もう一度整理しましょう。
①祭祀を掌る一族
②鎌倉郡鎌倉郷という狭い領域を本拠としている
③律令制度の崩壊による混乱、10世紀の没落貴族激変

同一国内のしかも同じ鎌倉郡内で同じ漆部氏を名乗り、同じ神職とあれば、真っ先に、「宿禰となった漆部伊波一族の命脈がこの八雲神社漆部家に残り、この宮司家を継承してきた」と思い浮かびます。漆部氏は、当初漆の職掌を表し、伊波に至って、祭祀を掌ったのです。漆部氏は全国的にそれほどたくさんいた大姓ではありません。
平安時代の前期まで、漆部直一族の末裔が、続日本紀に名を遺すほどの繁栄を見ましたが、他の豪族と同様、10世紀には没落していきます。相模の宿禰の直系は、河内に転任になったと考えられます。このことは、「仮題 河内の百姓になった伊波の孫たち」として別に述べたいと思います。
古代鎌倉の古東海道東西の境を神社を建立して鎮護した染屋氏と漆部氏
漆部氏は、当初漆の職掌を表し、伊波に至って、相模の祭祀を掌ったのです。
古代東海道の鎌倉の東西の出入口という重要地点、西の甘縄神明社、東の八雲神社が立地する意味を考えると両社に強い関係があったと見るべきでしょう。
村の境は、神聖な場所、穢れを心身の「ケガレ」を取り除き、精進・潔斎する場所とされる。
最も重要な場所を神社で占めた一族とは、当時の神祇祭祀を掌る職掌の一族なのでしょう。

境の神(さかいのかみ)とは
「異郷と接する地点に祀る神。境は未知の世界と接するところとして最も危険な場所と意識されており,畏怖の念をいだく場所であるため,祀られる神の性格もまた恐ろしい威力をもつものとして信仰されている。外部に対しては威力をもち,境より内側の者には守護神的性格をもつものとされてきた。道祖神,地蔵,塞の神 (さえのかみ) ,馬頭観音,鹿島人形,あるいは峠などに祀る柴神など」コトバンクによる

古代東海道の鎌倉の入口・出口という重要地点に、甘縄神明社、八雲神社が立地する意味「境の神」を祀り古代の鎌倉を鎮護していたのがともに漆部氏だったのです。

10世紀の古代集落の終焉
10世紀の古代集落の終焉の主たる要因は、在地領主層であった郡司層の没落によって、支配のくびきを離れた住民の自立しようとする欲望、有力農民の台頭などによる農民呼び込みであったといわれる。地域内での移住を繰り返していたと考えられている。(秦野市史)

漆部宿禰伊波の一族も、相模国で神祇祭祀関係に深く従事していたことが明らかになっています。その後裔たちも神社に関わりながら漂泊していたと推定したのです。

漆部氏小坂氏も、八雲神社の神主に就く永保年中平安時代の末期までの空白の百数十年は、まさに律令制度が崩壊し混乱の渦中にいたのです。
そういう時代を経て、再び漆部家の使命ともいうべき鎌倉の守護、境界を護る神社に関わり1000年を経ようとしているのです。この不思議というか、奇跡に近い貴重な歴史遺産と言えるのではないでしょうか。勿論それは、この「良弁僧正物語」の建てた推論、良弁僧正・染谷時忠兄弟の末裔説が正しければの話ですが、極めて蓋然性の高いものだと考えています。
小坂宮司は、現在兼務社として甘縄神明社の宮司も兼ねています。偶然とは言えない因縁を感じます。

  1. 2020/02/11(火) 13:14:59|
  2. 良弁僧正漆部氏
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春の訪れ

春の訪れ
昨日は、今年一番の寒波襲来、散歩は取りやめと思っていたが、陽射しのぬくもりを感じ、昼から海岸を回った。顔見知りの漁師の元気な姿を見つけ漁師小屋に寄る。
明日、スズキの曳き釣りに出かけるという。板を引いてスズキを狙うと言って道具を整理している。この寒い時期にスズキが来ているのか。サワラの大群が相模湾にやってきた話は前回書いたが、どうやらスズキも相模湾東側に来ているそうだ。

今日は北風が吹いているが明日は穏やかになるという。
前日の強い南が吹いても、この日の北が吹けばすぐに海は良くなる。漁師たちは経験的に知っている。相模湾は、北風が強くても、列島が風を遮り案外海は荒れない。

ワカメ干し


隣の漁師小屋ではワカメ干しが始まった。家族総出で大忙しである。養殖のワカメとはいっても確実に春が訪れている。来月になると天然物の解禁である。またあの食感を楽しめる時期がやってきた。
富士山
  1. 2020/02/07(金) 22:16:12|
  2. 逗子鎌倉葉山散歩
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春の魚サワラ

春の魚サワラ

春の魚と書くサワラ「鰆」、相模湾でも春になるとたくさん群れでやってきます。
先日漁師と話していると、早くもそのサワラの群れが相模湾にやってきたそうです。
二宮大磯方面の定置網に大量のサワラが入ったということで、この小坪漁師も曳き釣り(トローリング)の道具を抱えて出漁した。大きなサワラは、卸値も5000円近いから期待は大きいのです。
サワラと言えば、太陽がギラつき始めた頃の魚だったが、当地でもこの十年すっかり3月4月の春の魚になっていた。それがとうとう1月に登場したのです。
近年海水温がさらに上昇しているようで、現在18度近いが、例年より1度~1.5度高い状態が続くことが予想されるという。地上での暖冬もこんなことが起因しているのでしょう。

小坪港


通常の季節では、海水温はこれから徐々に下がり始め、3月くらいが海水温の底になります。その頃には、地上の気温が上昇して人々は動き始めて、美味しい魚に目が行くが魚の釣れない季節になるのです。
件の漁師サワラの漁獲は、さっぱりでした。自然相手の生業は、厳しいものです。魚の動きに機敏に対応しなければならないが、振り回されることが多いようです。
1月にこんなに海水温が高い今年は、これからどんな春を迎えるのだろう。
  1. 2020/01/29(水) 09:20:35|
  2. 逗子鎌倉葉山散歩
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良弁僧正物語⑦

良弁僧正物語⑦
---漆部直一族の本貫地出雲郡漆治郷の頃---
久し振りに、良弁さんの話を復活させます。昨秋の出雲古代史旅で得た成果のまとめです。
良弁(ろうべん)僧正は、諸国の国分寺の総本山として東大寺を建立し大仏を造立することを聖武天皇に進言しました。その後東大寺の開山(初代別当)となっています。
6世紀前半、出雲国で初めて「県アガタ」となった漆治(シツチ)郷、美談(ミタニ)郷とりわけ漆治郷は良弁僧正・漆部直一族の本貫地と見ているのです。このことは、昨春に良弁僧正物語(①-⑥後書)をまとめた際、良弁僧正物語②に概略書いています。今回はその出雲の地で漆部直一族が誕生した経緯に触れます。

漆部直一族の本貫地としたのは、漆部直氏姓が奈良時代(739年)の【出雲国大税賑給歴名帳漆治郷】に多数登場することでした。昨秋の出雲古代史旅における知見の一つ、門脇禎二著『出雲の古代史』において現在の「島根県出雲市斐川町直江漆治」が6世紀、大和朝廷による出雲国最初の「県」となった美談・漆治の二郷であり、その後出雲唯一の屯倉となり朝廷の直轄地となったことを知りました。きっと大和朝廷にとって、要衝地点となっていたのでしょう。
更に武光誠説によると「5世紀末には出雲郡に住む神門氏の領地の大部分が、雄略天皇の直轄地となった」としています。こうしてみると、出雲郡が直轄地となったのは、かなり早い時期と思われます。熊本県の船山古墳から出土した大刀銘や埼玉古墳群稲荷山古墳出土の鉄剣銘文の時期に近いのかもしれません。
「大和朝廷は、雄略天皇の時に全国統一(九州から関東)ができ、中央集権国家としての形が整った。」まさにこの渦中の出来事と思われます。

出雲郡の漆治と神原神社古墳とは出雲フルネの旧領地を挟むように対になる位置であったのです。「漆治は出雲フルネの旧領地ではなく接続地域」と門脇氏は考えています。
ある程度の距離を置いた要衝地を確保したとも考えられる。大和朝廷の出雲西部進出にあたり挟撃作戦の基地だったともいえるでしょう。

西部出雲漆治美談5km


さて、『出雲の古代史』から漆治・美談の部分を引用します。漆部直一族に関わる重要な点が多いのです。

『出雲の地に遺制として留意したいのは、739(天平11)年の出雲国大税賑給歴名帳を検討すると、出雲郡柒治(漆沼)(しつち)郷深江里に、物部首を称するものが見え、地名は今も斐川町の直江の北方に残るし、直江町が深江とかかわるとみてよいだろう。
これは、出雲フルネの旧領のすぐ北方につながり、入海(宍道湖)の西岸をなすところであった。斐伊川旧流の氾濫の危険性もあるところで、決して安定的とは言えない地域である。在地勢力が、物部氏の配下になったか、物部氏の手勢が新たに入植してきたものであろう。美談神社周辺の古墳、5世紀初頭の前方後円墳大寺古墳と上島古墳の関連を、物部氏の来遣を契機にこの地方に県が設置された可能性が強い。このことを象徴的に表しているのが、6世紀造営の上島古墳の副葬品においては、はるかに大寺古墳を凌ぐ点に表れている。
出雲国造とこの県主と関係に捉えることができる。国造任命とは別個により早く「県」が設置され、祭祀的集団とみる見解が有力。

県社は、美談(ミタミ)神社に合祀され、この神社の北の上島古墳は6世紀造営、副葬品から被葬者は、初めて県主任命された首長だろう。
6世紀前半 この地域は、物部の来遣を機に県(アガタ)となり、人民は県の御民とされた。その県はキツキの大神の各種の神料をととのえるものであったと思われる。』
以上が、門脇禎二『出雲の古代史』における西部出雲漆治と美談に関する国造任命とは別個により早く「県」が設置されとする部分の記述になります。
国造に優先して、県が設置され、その民は御民(ミタミ)とされていた。これはまさしく、この両郷は、大和朝廷は杵築への進出後、その地を直轄化すると共に、物部氏を出雲に派遣し、物部氏の軍事・刑罰の権力により西部出雲を統轄したというのである。このことは、物部の進駐軍が、漆治・美談地区に統括本部を置いたことが考えられるのです。
このことを象徴的に表しているのが、6世紀造営の上島古墳の副葬品においては、はるかに大寺古墳を凌ぐ点に表れている。

物部首について
門脇説では、漆治・美談郷の物部首の存在を強調していますが、物部連氏(天武朝に朝臣)とは別系統とされています。
「物部首氏は天武朝に布留宿祢姓を賜るが、饒速日命を祖と伝え大和朝廷の軍事的伴造として仕えた物部連氏(天武朝に朝臣)とは別系統で、布留地域の在地豪族と見られる。」
物部の来遣の物部氏が、大和朝廷の軍事的伴造として仕えた物部連氏とは別系統というのであるが、一方県立古代出雲歴史博物館の見解では、「6世紀 西部出雲の上塩冶築山古墳、倭風大刀の分布から、中央豪族物部氏の影響が強い」と指摘しています。
この見解が重要であり、出雲郡における物部氏の存在を証明しているといえる。
別系統の物部首氏の一族が出雲の領民になったと解すべきだろう。

部民の指定
部民の指定について、門脇説では、次のように述べている。
『手工業部民の遺制漆部直6戸、弓削部5戸、倭文部4戸のほかない。他の292戸は、すべて祭祀的職掌・政治的職掌や従属関係の部民や名代である。
後の出雲郡で屯倉が置かれたのは、美談・漆治郷だけで、県が置かれたことによる。両郷は、物部氏による杵築支配の一拠点であった。
出雲郷、塩冶郷、古志郷、日置郷等が最も先進的で、6世紀後半に急成長したカンド氏(神門氏の前身)の主要地盤であった。

そしてここの職業的部民として漆部直が6戸上がっている。大和の必要な手工業製品を確保することが重要な眼目の一つだった。

吉備国家の勢力の衰退後の6世紀前半に、かつて物部氏を通じてキツキ大神の祭祀を保ってきた県の地には屯倉がおかれたが、その地の人びとも、新たな祭祀体制のなかに組み込まれた。
たとえば漆治郷の地に掃守首(かにもりのおびと)がみえるのはキツキ大神の宮の神殿・神域の清掃に、海部・弓削部・漆部の人びとも神祭の供料をととのえたとみられる。だが、これらの地域では、漆治郷の漆治稲置、物部首、建部郷の建部臣などは、他方では地域の行政的責任を分担させられた。ここが、同じ出雲西部でも、カンド氏のがんらいからの勢力圏とは、現地首長の在り方、展開した前史のちがいによっていたところであった。』
以上が、門脇禎二『出雲の古代史』における部民指定に関する部分の記述になります。

部民の指定というのは、これまで税や特定の職業を課してきた人民に、今度は大和国家が課してくる税や特定の義務を、集落や数家族の単位で負わせることにしたもの。出雲国造下の部民には手工業部民がほとんど認められない。
部民とりわけ手工業部民の税や義務は、直接大和朝廷に帰属する。出雲国造はこのことに異を唱えるわけにはいかない。漆治・美談はそういう特別地域だったのです。

物部氏との関係について
門脇氏は「在地勢力が、物部氏の配下になったか、物部氏の手勢が新たに入植してきたものであろう」と言いますが、いずれにしても大和王権の手工業部民の豪族、漆治の長だったと思われます。「漆部直」姓を受けていたことからの想像です。
物部氏によりその要衝地点に送り込まれる先遣隊は、最重要任務を与えられているでしょう。重要な人たちがそれにあたるはずです。漆治・美談は、物部氏の命運を握る戦略基地、そこに漆部直一族が配置された可能性が強いのです。現地登用だとすると頗る稀なことでしょう。直接物部氏が信任の厚い一族を登用したと思われます。


初めての部民
出雲国での最初の部民になった漆部直一族、大和朝廷における部民制度のほとんど最初と言っても良いでしょう。
大和朝廷との直接的なつながりが感じられます。
「手工業部民の遺制漆部直6戸、弓削部5戸、倭文部4戸のほかない。他の292戸は、すべて祭祀的職掌・政治的職掌や従属関係の部民や名代である。」
大和朝廷にとって重要なものを創る職業的部民として漆部直が6戸上がっている。大和の必要な手工業製品を確保することが重要な眼目の一つだった。大和朝廷との直接的繋がりを感じないわけにはいきません。
部民制度は、6世紀前半頃に成立したとされます。527年磐井の乱後に、屯倉制や部民制を列島中に拡げていったといいます。
「漆部(ぬりべ)とは、漆の貢進や、塗漆の職能をもって朝廷に仕えた古代日本の職業部(品部)。」

「氏と姓とは
氏 支配者層に特有のもの
  ・ヤマト政権によって生み出された政治組織 
  ・祖先の系譜を同じくする集団の親族組織
   本拠地由来 葛城 平群
   職業由来  物部 大伴 膳
姓 大王より政治的地位と職掌に応じて与えられた称号
  例)臣(おみ)→ヤマト地方の有力氏
    連(むらじ)→職掌を氏の名とする有力氏
    君(きみ)→有力な地方豪族 直(あたい)→地方豪族」

この地域に部民制度が制定された時期を推定するには、物部氏と漆部に関する次の歴史的出来事までには、実施されていたと考えられる。

1.丁未の乱(587年)(大臣・蘇我馬子と対立した大連・物部守屋が戦い、物部氏が滅ぼされた。これから先、物部氏は衰退した。)

2.「『日本書紀』巻第二十一によると、587年(用明天皇2年4月)に漆部造兄(ぬりべ の みやつこ あに)が他2名とともに物部守屋より蘇我馬子のもとへ使者として派遣されていることから、漆器の製作者集団である漆部とその管理者がいたことが判明している。」
Wikiによる

漆部造兄の件は、物部氏との強い関係があったとみられています。漆部氏全体を表しているのかは不明。


物部氏の政策あるいは占領政策の一環で、大和朝廷の「県」となり、御民ミタミとして、初めての部民制度として、漆部となった。
門脇禎二氏は、美談(ミタニ)とは、御民ミタミのことではないかとまで言っています。
そして、この漆治は、初めての屯倉になって、大和朝廷の直轄地となって行くのです。
いずれにしても漆部直一族は、物部氏の強い影響下にあったことは間違いないようです。

これらのことから、出雲郡漆治郷は漆部直一族の氏姓の起こり、本貫地の可能性もあるとみています。手工業部民の族長・豪族とみられるのです。

「漆治」地名の由来
「漆沼」は湿地帯地名であり、漆治の湖沼変化の地勢にも一致する。当時は沼であったと思われ、地名の「漆治」が「漆沼」とされていたことにも一致します。
『出雲国風土記』出雲郡漆治郷の由来に、 「神魂の命の御子、天津枳比佐可美高日子の命の御名を、また、薦枕志都治値(こもまくらしつち)という。 この神が郷の中に鎮座しておられる。だから、志丑治(しつち)という」とあります。                                                                                                                    
「漆治郷の象徴的な神である、都牟自神はコモマクラヒツチヌ、ハヤツムジワケ、
キヒサカミタカヒコなどの別名がある。そきのや神も神奈備神も同神ですから斐川平野の中心部の象徴的な風神と言えそう」とする説もあります。

漆治郷(現在の出雲市斐川町辺り)に坐す神であり、この神の「志都治値」の名から「志丑治(しつぢ)」という地名になり、のちに「漆治」と字を改めたとされる。
漆治は、神名火山ゆかりですが、神名火山とは、「神の隠れこもれる」という意味です。「かんなび山」は信仰の対象として古代人に祭られていた山のことを指します。出雲の象徴の山であり、その山の神社の祭神が、漆治地名命名の基になっているとされています。

漆治は、出雲そのものであり、出雲神そのものなのです。それも古い出雲、大和に支配に属する前のことを指していると考えられる。
故に、出雲国造の祖、と表しているのです。

このように考えると、漆治の地名形成において、この地は、出雲そのものなのです。祀られた神は、出雲神そのものなのです。

在地勢力か物部氏の手勢の入植か
漆部直一族は、物部氏の強い影響のもと、在地勢力が物部氏配下になった場合は、漆治・美談地域において、部民制度の成立後、6世紀前半大和で「漆部」発祥を承けて、中央の漆部の管理者の配下として手工業部民の豪族となったとみられる。
一方、物部氏の強い影響を考えると物部氏の手勢の入植の可能性もあります。
「漆部連の本拠大和より派遣された部民の中から漆部直とされた」とみる見方もできます。
漆部造兄の件は、物部氏との強い関係があったとみられています。漆部氏全体を表している場合、物部氏の宗家の衰退とともに、漆部氏全体の崩壊もありえますので、それはなかったのです。ここでは、漆部造兄個人の物部守屋との関係と見たい。

結 論
漆部直一族は、大和朝廷における部民制度の草創期の6世紀前半に、漆部となり、大和の必要な手工業製品を確保することが重要な眼目の一つを使命とした手工業部民の豪族だった。
出雲郡漆治郷は漆部直一族の氏姓の起こりの本貫地と思われる。
それゆえ、漆治の地名も意味も漆部直一族の治めた地と見ることもできるのではないか。物部氏との関係は、非常に強いものを感じる一族です。在地勢力か物部氏の手勢の入植かについては、明らかにはできませんでしたが、地方豪族としてこの地で生きてきたことが見えてきました。
漆治の地名の謂れも、出雲固有の神の名に由来する。「曽支能夜の社に鎮座しておられる、伎比佐加美高日子の命が、この山の嶺にある」とある。
「古事記」に出雲国造の祖として言及される「岐比佐都美(きひさつみ)」と比定される。

以上が、出雲古代史の旅、現地調査によって得た多くの新しい知見に基づいた考証になります。
中央での物部宗家の衰退は、出雲西部に大きな影響を与えたでしょう。漆部直一族にとっても、漆加工の技術にとって、大きな影響が起こったことが想像されます。それが関東への移住につながったのかもしれません。

  1. 2020/01/20(月) 21:08:49|
  2. 良弁僧正漆部氏
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