6世紀後半の王権支配の様相、東京低地と相模湾岸1.一般論東京湾岸・葛飾郡は王権と深く結びついた地域今回は、踏破できなかった小岩や柴又方面が焦点になる話です。改めて小岩方面を見ると、
四つ木や鐘ヶ淵と比べると、小岩・柴又方面は、少し長閑なというか落ち着いた雰囲気があります。中川を渡ると印象が違うのです。江戸川の自然堤防上に開け、平安時代末期から荘園となっていた土地柄なのです。実際に出かけるのは次の機会として、まず古代の葛飾郡大島郷について検討してみましょう。
「高橋氏文」で紹介された磐鹿六鴈は、景行天皇の東国巡幸に隨行し、堅魚や白蛤を調理して天皇に献上し、その功により以後天皇の供御に奉仕することを命ぜられた。
聖徳太子のもとには膳氏(カシワデウジ、のちの高橋氏)がいた。孔王部は膳氏の配下にありました。孔王部を中心とした御名入部の多くは、
6世紀末から7世紀初頭にかけて、膳氏と当地域との関係を介して膳氏が奉仕する上宮王家(聖徳太子一族)の関連王族のもとに集中・編成されたものではないかと推測しています。(田中禎昭)
『ここで私の素人なりの疑問を述べておきます。
孔王部が7世紀初頭より、100年以上にわたり貢納を続け、名代の孔王部を引き継いでいる点です。
氏姓制度の維持、孔王部の集中度が際立っています。大半が同じ姓というのが、大化の改新前後の時代とはいえ奇異な感じが残ります。今一つは、孔王部の本拠地、膳氏が、中央からの派遣により東国に赴任したとしても、
孔王部を伴っての移動があったのかという点です。現地調達でなければ、当地の事情漁業であればなおさらです、土地勘に長けていなければなりません。中央からの派遣ではそれは叶わないでしょう』。
「古代東海道四つ木から立石」で述べた「王権支配による葛飾の開発」で紹介したように葛飾郡は王権と深く結びついた地域だったのです。
田中禎昭著「中世以前の東京低地」に基づいて、少し詳しく見てみましょう。
『高橋氏文』の葛飾野での天皇の狩猟伝承は、まさに安房方面での海の支配に対応する野(山野)の支配を象徴する「山海之政」の一の柱を構成する儀礼行為であったと位置づけられるものだといえます。つまり、安房と葛飾野は、両者が一体となって初めて、天皇への膳氏の貢納奉仕が実現できる象徴的な山野河海の儀礼の空間として意味をもったということができると思います。
養老5年(721年)に作成された「下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」が、奈良東大寺正倉院に伝わっています。それによると、大島郷には、甲和里(こうわり)・仲村里(なかむらり)・嶋俣里(しばまたり)という集落が存在していたことがわかります。
甲和里は江戸川区小岩、嶋俣里は葛飾区柴又に該当すると考えられています。奈良時代の戸籍、下総国葛飾郡大嶋郷の比定地になっています。
次の図は、721年の大島郷甲和里・仲村里・島俣里の三つの里の位置関係を古代道で結んだものです。島俣里へは立石から脇往還で結ばれていた。仲村里は立石・奥戸としている。

養老5(721)年の戸籍に孔王部姓が多く、孔王部は穴穂部に通じます。
甲和里は、下総の国府への官道の渡河地点に当たり、宿駅機能を持っていたでしょう。待機的な機能は無論のこと、片側だけに宿駅があったとは考えにくいからです。賑わっていたでしょう。甲和里の中心地は、この宿駅を中心に構成されていたことが考えられます。「下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」の
孔王部一族は、この官道の宿駅を守った人たちと見ることもでもできます。
東京低地とその付近の部民分布を改めて調べてみると、東京西部低地に大伴部・宍人部の分布が想定され、その周縁部たる豊島郡日頭郷には鳥取部が存在し、膳氏と東京低地の関係は極めて濃厚なものがあるといえます。私は、こうした膳氏の当地域に対する関係を通じて、初めて大嶋郷に膳氏が近侍する王族の御名入部としての
孔王部が六世紀末・七世紀初頭頃に東京東部低地に設定されえたものと考えています。』
葛飾が王権と深く結びついた地域であったと推察できる。(葛飾区史)
葛飾の語源「かつしか」の語源については多くの説がある。(1) 葛の多く生えた「葛繁」の意とする説、(2) 「かつ」は崖、「しか」は砂洲とする説、(3)「かとしき(門敷)」の転化で、古利根川下流の入江の門戸の低湿地を整備して、集落が立地したことによるとする説、(4)「方洲処(かたすか)」で、一方が砂地の所とする説、等が有力で、他にアイヌ語説やレプチャ語説まである。
時代背景3世紀後半頃 大和王権の成立
日本武尊の東征
4世紀後半 逗子に大和王権東征前進基地、前方後円墳の造営
5世紀後半 雄略天皇の頃に、大和政権の版図が東国から九州まで拡大、
南関東の相模・上総・下総・安房・常陸が、服属
6世紀後半 柴又・奥戸・東新小岩などで集落が形成され始める
柴又八幡古墳の築造
7世紀初め 孔王部の当地の定住
2.何故無邪志・知々夫国造の祖なのか『高橋氏文』の中で「堅魚と白蛤の料理に
何故安房近在の国造が召喚されるのではなく、遠い無邪志・知々夫国造の祖が召喚されているのか」
このことについては、安房近傍房総半島の国造は、既に王権に従属してしばらく時を経過していたとみるべきでしょう。相模も同様です。
無邪志・知々夫国造の祖最近従属したのだろう。征服した範囲を挙げたようだ。
本来、行幸の地が葛飾野だったら、その近辺に借宮を設ければよく、近辺の国造を呼べばすむのだが、力を見せつけるための道具立てが必要だったのだ。勢力範囲を安房から葛飾野までの湾全体を見せたかったのだろう。
実際は、
鰹を獲ったのは、限りなく太日川・多摩川河口だったように思う。なぜならば、その後、膳臣高橋氏の信仰の地高椅神社が、下総国の陸地の先端(現在の栃木県小山市)にまで伸びているからである。
武蔵国造や秩父国造が配下になっている。武蔵国の屯倉を提供した後と考えられる。
太日川・多摩川を押さえることは、上野国・武蔵国の東京湾・外部へ抜ける出口を塞いでいた。
3.太日川が重要な川であった3-①地勢「古代の葛飾郡の立地が南北に細長い理由は、ひとえに
太日川がその中央を流れていることによる。この河川の両岸を占拠することが狙いだったのだろう。本来河川は、区域を分ける要素になるが、この郡は、違った。中央を流れている。もし領土としてとらえるのならずいぶん非効率的な管理となる。
違う理由があって、川そのものを完全に支配下に置こうと言う意思があったのだろう。あくまでも太日川が重要要素なのだ。
この川を使った水運、戦略上の重要な河川であったと考えられる。
北端が、毛野国と接していることが重要であった。更に北武蔵との関係もあったかもしれない。」
景行天皇が葛飾の野での狩りを行う意味は、毛野地域には未だヤマト王権の支配が及んでいず、葛飾は、地政学的に北端が毛野国に面しており、毛野より流れる太日川(江戸川)が中央を貫く特別な位置関係にあります。
軍略上最重要な位置にありました。
天皇の葛飾の野の狩りは、前線の兵站基地視察だった可能性さえあるのです。
当地付近に設定された孔王部を中心とした御名入部の多くは、その後、6世紀末から7世紀初頭にかけて、膳氏と当地域との関係を介して膳氏が奉仕する上宮王家の関連王族のもとに集中・編成されたと言える。
3-②有機的結合していた水上交通ルート以下田中説『近年、後期古墳の石材に利用された「房州石」の分布が注目されています(文献46・4833)。谷口榮氏 は、
「房州石」を用いた埼玉県行田市の将軍山古墳、北区赤羽古墳群三号墳、葛飾区の古墳の石材の可能性がある 「立石」、葛飾区柴又八幡神社古墳、千葉県市川市法皇塚古墳の分布を確認した上で、「高橋氏文」から推測される
安房―葛飾―北武蔵という東京湾と旧利根川を介した水上交通ルートとの関係を指摘されております。この知見は文献の立場から見ても非常に重要であると思います。谷口氏の指摘される水上交通ルートのみならず、「高橋氏文」及び 部民分布から確認できる膳氏の勢力分布と「房州石」の分布範囲がほぼ合致しているからです。 北武蔵の埼玉古墳群地域一帯を本拠としたと考えられている无邪志国造は、「高橋氏文」に登場する「無邪志国造」や「日本書紀』弘仁二年(八一一)九月朔日条に見える「无邪志直膳大伴部広勝」 の名からその一族が膳大伴部とされたことが知られています。埼玉古墳群中にある
将軍山古墳は、二点の銅鋺を副葬することで知られ、それを一つの根拠として金井塚良一氏(文献2)によって西暦六〇〇年前後の推古朝の東国進出の過程で
ヤマト王権と最初に接触した北武蔵の豪族の古墳として位置づけられているものです。こうした六世紀後半の「房州石」を用いた諸古墳が膳氏の進出と関係するか否かは、石室の編年などの点で更に精緻な考古学的検討が必要に思われますが、文献史料の検討からは、
六世紀末・七世紀初頭の時期に安房・葛飾・北武蔵の東京湾と旧利根川を介した水上交通ルートを掌握した膳氏の進出によって、膳氏管掌部(大伴部・宍人部など)と膳氏の仕奉する王族の御名入部(孔王部長谷部など)が東京低地に設定されたことが指摘できると思います。』
紀州と三浦半島の交流紀州の漁民は、外洋性回遊魚カツオを追って、黒潮に乗り三浦半島にやってきていた。カツオ漁の漁法は、4~5世紀頃には、紀州から三浦半島に伝えられていた。
洞窟遺跡には、大型鉢形土器を使い、鰹節の起源になるような製法によって、生節や、カツヲ出汁を作っていた。長期に滞在し、三浦半島近辺の住民と物々交換、交易をおこなっていたとみられます。かつお出汁を使っていたとは驚きですね。
カツオを巡って、東京湾と紀伊半島沿岸は繋がっていました。古代・大和と紀伊の文化交流を考えれば、大和と三浦半島の航路があったことは十分に想像できます。
紀州の漁民たちは、運搬の任務を担っていたともいわれます。漁撈民が輸送にかかわっていた。渡来系集団は、大量輸送を始めていたようです。
輸送集団・ピストン輸送の登場は、その後の律令体制がスムーズに移行する要因にもなったといいます。
3-③膳氏と孔王部氏の配置下総国に孔王部を置くこととなった。聖徳太子のもとには膳氏(カシワデウジ、のちの高橋氏)がいて、孔王部は膳氏の配下の漁民であった。(江戸川区年表)
海運の技術に長けていたことから、中心的な軍事力を有していたと思われる。江戸川をさかのぼり、周辺の流路を使い、当時栄えていた港、津を経由し鳩ケ谷から大宮台地を通り、稲荷山古墳の地まで進出した。
3-④孔王部氏の葛飾郡定住時期安房と葛飾を結ぶ水上ネットワークの担い手は、孔王部一族だった可能性が高いのです。
6世紀以降孔王部一族は、海人族として膳臣の配下として江戸川の水運を握り、交流に寄与した。埼玉古墳群に使われた石材は、房総の石を用いており石材の物流も盛んに行われていた。水運は江戸川や荒川を通じ房の国に繋がっていた。
水運を担っていた孔王部氏の次の世代の人々が、江戸川沿いの後の葛飾郡の大島郷に定住することになったのだろう。
江戸川を往来する稲荷山古墳群の盟主たちをサポートしていた。武蔵の国との交流が盛んになった時期であった。
4.古墳の型式 前方後円墳と横穴墓4-①前方後円墳横穴式の石室を伴う柴又八幡古墳は、6世紀後半に築造された。西暦550年頃の築造とすると500~575年前後の時代を生きた有力者の墓と考えられる。
国府台古墳群の造営時期も凡そ6世紀後半とみられることから江戸川をはさんだ両岸に人が集まりだした時期は同じころと思われる。
形状はともに前方後円墳後期古墳の石材に利用された「房州石」の分布が注目されています。
「房州石」を用いた埼玉県行田市の将軍山古墳、北区赤羽古墳群三号墳、葛飾区の古墳の石材の可能性がある 「立石」、葛飾区柴又八幡神社古墳、千葉県市川市法皇塚古墳の分布を確認南蔵院裏古墳と熊野神社古墳(立石8丁目)
6世紀後半ごろにつくられた南蔵院裏古墳からは埴輪が見つかっています。7世紀後半ごろにつくられた熊野神社古墳は直径12メートルほどの古墳で、須恵器という土器などが見つかっています。
4-②相模湾沿岸の横穴墓状況横穴墓の起源と変遷5世紀後半の九州北部の豊前地域に淵源を持つと考えられている。おもに6世紀中葉に山陰・山陽近畿・東海まで盛行した。7世紀初頭までには北陸・関東・東北南部まで分布した。薄葬令前後から爆発的に増加した。一部では8世紀中頃までに終焉
三浦半島では六世紀末頃から作られたようです。
この頃の横穴群は逗子市の山の根、横須賀市田戸台、久里浜、鴨居、長居、佐島や三浦市菊名、向ヶ崎などに残っています。
6~7世紀造営の横穴墓が千基を越える群集のある相模湾沿岸、これが100年くらいの間に集中して造営された。
6世紀前半、北部九州の筑紫君磐井が、継体大王の軍門に下り、大和王権の中央集権体制の道筋が出来上がった歴史的出来事が、この動きに符合することに気づきます。それ以後の6世紀後半以降、北部九州の東国移動が起こったと思われます。
鎌倉「長谷小路周辺遺跡」と名付けられた古墳時代後半の箱式石棺墓が出土しました。検出遺構の年代は、古墳時代後半と考えている。
6世紀初めから7世紀の半ば頃までを古墳時代後期とされ、西暦600年頃と想定しました。
各地の初期横穴墓は北部九州の横穴墓と酷似することから、間接的な墓制の伝播ではなく、直接派遣された北部九州の渡来系集団が構築した墓である可能性が高いと言えます。三浦半島の横穴墓の被葬者たちは、遥か九州から船に乗ってやってきたのではないでしょうか。
6世紀中葉頃、北部九州が畿内王権の直接支配を受けるようになったとされる記事と関わりがあるかもしれません。畿内王権の命を受け、東日本に派遣されたことになります。(稲村 繁 横須賀市自然・人文博物館)
新たな階層の人々に対する横穴墓が造営『横穴墓を築造することは、地域首長が前方後円墳・方墳を築造したり、下位の階層が横穴式石室墳などの群集墳を築造するのと同じく、身分制に基づいた中央政権の承認・関与があったためであり、横穴墓は墳丘のない墳墓として横穴式石室墳よりも下位にランクされたため、と言えるのです。
横穴式石室墳と横穴墓は、墳丘墓を造れる集団と造れない集団のそれぞれにおいて新たに台頭した階層に対して、
ヤマト政権が彼らを取り込むために築造を認めた墓と捉えられるのです。背景は、
中央集権的な政治体制を指向するような施策が採られたためと推定できます。その施策の結果、それらの
地域に新たな階層の人々が出現し、横穴墓が造営されたと考えられるのです。
征討軍のルートが、横穴墓の分布と近似中央から地方へ派遣された征討軍のルートが、横穴墓の分布と近似しています。
東海道から東山道の太平洋側の横穴墓の分布は、日本武尊の東征ルートと合致しています。若干の異同はありますが、『日本書紀』『古事記』共に記されています。』
以上岩松 保(京都府埋蔵文化財調査研究センター)
横穴墓の分布が、大和武尊の東征ルートに、逗子鎌倉三浦半島などが入っています。
6~7世紀造営の横穴墓が千基を越える群集のある相模湾沿岸も激しい闘争があったと言われています。
早い段階で、王権の支配に属した相模国だったことも頷けます。
相模湾沿岸の1000基に及ぶ横穴墓の存在は、この新たに台頭した階層に対して、
ヤマト政権が彼らを取り込むために築造を認めた墓と捉えられることが可能と解釈できます。
一方、ヤマトタケル東征のルートから外れた太日川両岸の柴又八幡、国府台古墳群の6世紀後半の前方後円墳は、ヤマト王権が深く関与した古墳とみられるのです。
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- 2022/05/17(火) 20:55:56|
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古代東海道 四つ木から立石清重の居館跡西光寺からは、寄り道をしながら古代道をつかず離れず歩くことになります。
道に迷えば、私たちと同世代の人に声をかけ、昔の道を偲ぶことにしました。
先ずは、四ツ木駅付近にある鰻の名店、昔魚屋さんだった店がいまは鰻屋を開いているという話なのだが、場所は皆さん知っていた。
出来れば飛び込みでうなぎが食べられないかと行ってみた。ランチ時だというのに入り口は固く閉ざし、様子も聞けない。そこへ、ジープで乗り付けた若い女性が、「ここは予約しないとは入れません。私はこの時間に予約した」というのです。予約制でも直接の来店者は空きがある限り受け付ける老舗はあるので、聞いてみようと試みたが、あえなく断念。坂東太郎のうなぎが食べられる店と聞き、「剣客商売」の食通秋山小兵衛、鐘ヶ淵のわび住まいを連想した。四つ木は、荒川放水路ができる以前は隣村になる。江戸の地理も、放水路のない時代を想像できないと見えてこないものだ。
立石方面の古代道を歩いていると、
友人が、「葛飾郵便局の近くで京成線が古代道を切る踏切の位置や見通した時の古代道の見え方など、とても魅力的に見えた。その気持ちを持ってみると、何か匂ってくるように思われ魅惑的でした。本当に楽しく、ありがたい気分を過ごすことができました。」
実は、彼は幼いころ、この辺を歩いたことがあるのです。
でもまさかここに古代東海道が通っていたとは全く知らなかったのです。
私はというと、この辺りから疲れて、ただ漫然と歩いているだけで、古道の面影など思いもよらなかったのです。暑くてどこで切り上げようか、それを友人にいつ伝えようかと思っていたのです。この辺で万歩計は、14000歩程度は指していて、いつもの散歩の2~3倍は歩いているので、興味のある景色が次々と現れるし、自宅付近と違って、平坦路で歩きやすいということもあって歩数は稼いでいたのです。脚にバネもなくなり、ただよたよたと歩いているだけでした。
丁度良いことに、立石の商店街で、友人が喫茶店に入ろうというのです。
千円でベロベロに酔えるという千ベロの聖地の純喫茶、ゆっくり休むことができたのです。立石様をゴールにしようということになりました。

今回の古代東海道歩きは、行った後により楽しみを感じています。現地で知ったことで刺激を受けて、新たな情報を集め驚いています。
奥戸街道を進むと大きな橋にぶつかるが、ここを渡らず、蛇行する川を迂回して上流に進む、旧家の趣のお宅、祠などが次々現れ、いかにも古代道と感じられる土手の道。
ここで少し行き過ぎたようで土手の下を歩くことにする。
王権支配による葛飾の開発以下『』書きは、この地方の古代の開発の歴史についての葛飾区史の見解です。
以下出てくる「高橋氏文」は、このブログでも何度も取り上げている磐鹿六雁・膳臣
・高橋氏などに関連して取り上げています。この地と大いに関係してくるとは、驚きです。膳氏と孔王部のただならぬ関係が見えてきました。それらについては、次回以降で触れてみたいと思います。
『東京低地では5世紀に人が活動した痕跡は少ない。葛飾区内では6世紀の古墳時代後期になると、柴又・奥戸・ 東 新小岩などで集落が形成され、これらの地域では6世紀後半の土師器、須恵器といった土器が出土している。東京低地を見渡してみると、古墳時代前期に集落であった場所が、古墳時代後期に再び人々の活動の場となっている。一方、葛飾区内では柴又・奥戸・東新小岩などのそれまで開発されていなかった場所で遺跡が見つかっており、
この時期に新たな集団が入ってきたことが考えられる。 この集団がどのような人々であったかを考える上で参考になるのが「高橋氏文」である。これは、古代の朝廷に仕えた高橋氏が、祖先の磐鹿六鴈命以来、天皇の食事を担当してきた由来を記した史料である。その中に、景行天皇が東国を訪れた際、「葛餝野」で狩りをし、その後食物を献上されたという記載がある。「高橋氏文」は平安時代初期に作成された史料であるが、ここにあらわれる「葛餝野」が古代葛飾郡に結びつくとすると、
葛飾が王権と深く結びついた地域であったと推察できる。
このことは、後述する養老5(721)年の戸籍に孔王部姓が多いことからも推定される。孔王部は穴穂部に通じ、5世紀後半に即位したとされる安康天皇は穴穂天皇とも呼ばれることから、穴穂部は安康天皇に奉仕した集団としての部民とも伝えられる。
また、柴又・奥戸・ 東新小岩などの開発が始まる6世紀後半には、6世紀半ばに即位した欽明天皇の皇子に穴穂部皇子、皇女に穴穂部間人皇女がおり、彼らとの関係もうかがえる。したがって、
この孔王部姓の集団を古墳時代後期における東京低地東部の開発集団とするならば、集落の形成は中央の政治的な動向に連動したもので、王権の関与があったことも推定できる。開発の時期が6世紀後半頃からであることからすれば、部民設定は欽明天皇の時期とみた方がよいだろう。』葛飾区史
孔王部の部民設定を六世紀末・七世紀初頭とする説が以下『』は田中説である。
『孔王部は、安康天皇の名代として(あなほ なしろ)とらえられるものではなく、
六世紀末・七世紀初頭に三枝部穴穂部王(穴穂部王子) や穴穂部間人王女の御( さいぐさ べ しひと) 名入部として設定されたものであることが考えられます。穴穂部間人王女は、用明天皇后で聖徳太子を生み、死後、 太子及び太子后の膳氏出身の膳部菩岐々美郎女と合葬されたことが伝えられており、
この田目王子の名は、『日本書紀』 皇極二年(六四三)一一月内子条に山背大兄王の舎人として現れる田目連氏の王子宮への奉仕との関連が想定されるものです。
田目氏は供御の炊飯(タメツモノ)を担当した伴造氏族でその職掌から膳氏との密接な関係が想定される氏族です。このことは、穴穂部間人王女宮と田目王子宮との家産の合一の可能性を示唆しています。
こうした事例は、
膳妃や田目連氏と穴穂部間人の密接な関係を物語るもので、上宮王家の近侍氏族として知られる膳氏及びその関連氏族の穴穂部間人王女への仕奉を類推させるものです。また、大嶋郷戸籍に見える部名のうち、三枝部・長谷部・小長谷部も膳部菩岐々美郎女と聖徳太子の間に生まれた三枝王・泊瀬王ハッセの王名と関わる部であり、
上宮王家を構成する膳系の王族の御名入部であったことが確認されます。』以上「中世以前の東京低地」 田中禎昭著
『柴又・奥戸・東新小岩の集落遺跡は奈良時代以降まで継続していて、この地域における古代集落の原型が6世紀後半から7世紀代にかけて出来てきたことがわかる。
柴又八幡古墳横穴式の石室を伴う柴又八幡古墳は、6世紀後半に築造された。西暦550年頃の築造とすると500~575年前後の時代を生きた有力者の墓と考えられる。
国府台古墳群の造営時期も凡そ6世紀後半とみられることから江戸川をはさんだ両岸に人が集まりだした時期は同じころと思われる。南蔵院裏古墳と熊野神社古墳(立石8丁目)
立石8丁目からは、南蔵院裏古墳と熊野神社古墳が見つかっています。古墳とは、土を集めて丘のように盛り上げてつくったお墓で、その地域で力を持っていた人のためにつくられました。
6世紀後半ごろにつくられた南蔵院裏古墳からは埴輪が見つかっています。7世紀後半ごろにつくられた熊野神社古墳は直径12メートルほどの古墳で、須恵器という土器などが見つかっています。立石には古墳時代後期の集落を示す遺構がほとんどないことから、 奥戸地区の集落の有力者が埋葬されている可能性もある。古墳の造営は、6世紀後半に王権との関連のもとで集落が展開したことに対応する。』葛飾区史
立石様立石は、中川右岸に形成された自然堤防上に位置する石標です。
石材は千葉県鋸山周辺の海岸部で採集された、いわゆる房州石で、最大長約60cm、最大幅約24cm、高さ約4cmが地上に露出しています。
もともとは、古墳時代の石室を作るためにこの地に持ち込まれた石材と考えられます。一般的に「立石」という地名は、古代交通路と関係が深い地名で、岐路や渡河点などに設置された石標にちなむとされています。この立石のある児童公園の南側、中川に接する道路は、墨田から立石・奥戸を経て中小岩に至り、江戸川を越えて市川の国府台へと一直線に通じており、平安時代の古代東海道に推定されています。そのため、この立石は古代東海道の道標として建てられたと考えられます。江戸時代後期以後、立石は寒さで欠け、暖かくなると元の戻る「活蘇石」として、「江戸名所図会」などの地誌類に多く記載されるようになります。略
東京都教育委員会
次の図は、721年の大島郷甲和里・仲村里・島俣里の三つの里の位置関係を古代道で結んだものです。島俣里へは立石から脇往還で結ばれていた。仲村里は立石・奥戸としている。
五方山熊野神社平安時代中期、一条天皇の長保年間(999~1003)にご創建されました。いまから一千年以上前、陰陽師として名高い安倍晴明公によって熊野大神が勧請されました。安倍晴明公により、
境内を三十間五角とし、五方山熊野神社と号し勧請、安倍晴明公ゆかりの神社として関東唯一、さらに葛飾区内で最も古い神社です。大きく湾曲した中川の流れの中州にあり神社が鎮座するのも中州ゆえ
古くから水害に悩まされてきたわけです。平安時代に陰陽師の安倍晴明が神社を勧請するにあたり境内を五角形にして結界を張ったと言う。
『熊野神社の南へ徒歩数分の中川縁に南蔵院があります。真言宗豊山派の寺院で五方山立石寺と号します。五角の地に熊野神社を勧請して五方山と名付けたとの謂れからも分かる通り、熊野神社の別当寺(神仏習合が普通であった江戸時代以前、神社を管理するために置かれた寺)として長保年間(999~1004)に創建されました。五方山が五芒星に通じていることは明らかです。
熊野神社と陰陽師 荒俣宏氏の記事『荒俣宏氏の掲示板記事大要
安倍晴明勧請とされる五方山熊野神社のその敷地は一辺を三十間とする五角形をしている。この五角形は安倍晴明判紋として有名な五芒星、つまりドーマンセーマンをイメージした形といわれる。
熊野神社がつくられた長保年間は安倍晴明の晩年にあたるので晴明勧請という伝説もあながち根拠がないわけではない。
おそらく陰陽師の指導でつくられたお社だったのだろう。
この神社が陰陽師の手で築かれたと考えられるのは、水害の多い中川の洲にあるからである湿地や川辺を埋めたて、橋や堤を築く治水の仕事に陰陽師が深い関係をもっていた
晴明が活躍した時代と重なり深くつながっている根拠は、 川べりにある南蔵院である。五方山南蔵院と号し、 真言宗の寺であるにもかかわらず神をまつっていた。真言宗は密教の教義も学び、陰陽師と同じように祈祷や地鎮、治水の担い手だった。
南蔵院が属した真言宗豊山派は、豊臣秀吉によって一掃された根来山真言宗なのである。
陰陽師たちは秀吉の時代に、なかば追われるようにして関東へやってきた。
名古屋から関東に流された陰陽師たちは葛飾の水地域に住むにあたり、開祖安倍晴明の伝説を活用してハクをつけたのだろう。』
迷宮に迷い込む
この時、湾曲した狭い部分に、熊野神社、南蔵院、立石様、古墳が二つ隣接している。どこをどう歩いても、背後に、中川の土手が見える。
まっすぐ歩いてたつもりなのに、また同じような場所に戻っているように感じる不思議な体験をした。
昔の人だったらタヌキやキツネに化かされたとでもいうのかもしれない。まあそこまではいかないが、友人と一緒だから、ふあっとした感覚程度で済んだのだろう。安倍晴明・荒俣宏氏さんの話を魅入られてしまったのか。
立石駅に戻って、のどを潤そうとしたが、結局近所の人に尋ねる始末、教えてくれた方も、立石駅まで00は複雑だからと青砥駅方面を案内された。電車の線路に沿って、立石駅に辿ってようやく着いた次第です。
千ベロの立石、目指す店は、既に満杯、それも裏が入口、一軒寄ってからもう一度覗いたが、行列がさらに増していた。
- 2022/05/08(日) 15:01:25|
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古代東海道東京低地横断ルート踏破東京下町に古代東海道の痕跡が残っているということは、以前このブログでも書きました。頼朝軍は3万の大軍に膨れあがり、隅田川を渡り鎌倉に入った。頼朝の出世街道と言われる所以です。
この古道を頼朝とは逆に歩くことを計画しました。
古代の東海道は当初、都から相模国へ至り、三浦半島から船で上総国の富津(千葉県富津市)に渡って上総国府(千葉県市原市)経由で北上して下総国府(市川市国府台)に到達するルートでした。奈良時代になると、各役所同士の行き来も頻繁になり、それまでの海を渡るルートだけでなく、武蔵・下総間の東京低地を通る陸づたいのルートも重要視されるようになりました。
明治13年に測量された地図を見ると、墨田(墨田区)から立石、そして小岩(江戸川区)へ通じる直線的な道があるのが分かります。古代の官道沿いには、「大道」という字名(あざな)が多く残っていますが、この道沿いにも「大道」(墨田と四つ木三丁目)や「大道下」(小岩)の字名があります。また、古代の駅もしくは官道に関係したものに「立石」という字名が残っている例もあり、木下良氏(古代交通研究会会長)は立石様(立石八丁目)を、官道の標識的なものではないか、と説いています。最近の調査では、官道が直線的に造られていることも分かってきています。
官道に関わるいろいろな事例がみられる墨田から小岩へ抜けるこの道が、東京低地を通る古代の東海道の推定ルートの一つと考えられているのです。
(郷土と天文の博物館)

まず最初の関門は、荒川放水路、ここは昭和になって人間が掘った川、鐘ヶ淵から四つ木の間が寸断され、橋と高速道路が架かっているからより複雑になっている。タクシーならあっという間にのんきに通過できるが、私たち珍道中は右往左往の繰り返しだった。
雨が続いた4月のある日、たった一日の晴れ間を見つけ歩いた。
鐘ヶ淵から小岩のコースの中間点立石までで打ち止めとなった。帰宅したら万歩計は2万を超えていた。うなぎの名店探訪、四つ木の灸など寄り道のなせる業だったが、初めてのことがたくさんあり素晴らしい歴史散歩だった。
60年以上前、当時の子供が老婆から聞いた話だったが、「昔は四つ木の灸の前の溝の水を飲んでいた」。びっくりする話だが、100年以上前のほとんど江戸時代の話を聞いた様な気がした。こんな話も現地で聞くと臨場感があるものだ。
古東海道の経路の変遷は、771年新しく古東海道を付け替える際、東京湾を渡るルートは、当時の大和王権にとって、王権の支配した地域を通すことが最重要事項であった。房総半島、相模が支配下にはいった。武蔵の国はまだ強大な勢力が、ヤマト王権と対峙していたため、遠く迂回するほかなかった。海上渡航という危険な要素がありながらもこれに頼るほかがなかった。
更に、東京下町ルートはまだ低湿地が残り、不安定な地勢であった。
最初の訪問ポイントは、西光寺葛西三郎清重館跡、すぐ脇に古代東海道が残っている、800年前の旧跡に間違いないと確信できた。現代のgoogle地図に「古代東海道」と表記される部分もある。
先が楽しみになって、友人はこの道は間違いなく古代の道を思わせると言い、「聞かされるように見ると成る程、そんな曰くありげな道の伸び具合、曲がり具合に全く納得できる要素が潜んでいることに本当に驚かされました。」と話すのです。
葛西三郎清重とは、このブログの「中原中四郎惟重を使者に立て」の中で
『
眼下の小岩から立石を経て墨田・浅草に至る糸を引くようにまっすぐ伸びる道 (略)
江戸重長の誘殺を促したが、清重は同族のよしみから宥免を乞い、許されて江戸重長を頼朝に服属させた。』と登場し、奥州藤原氏討伐後の文治5年(1189)
奥州総奉行職に任じられ、その後、豊臣秀吉の奥州仕置まで奥州を基盤に勢力を誇っています。『
西光寺天台宗浅草寺末、超越山来命院と号す。本尊は弥陀にて堂の傍に別殿を建続く。親鸞自筆の阿弥陀を安す。縁起に云、昔葛西三郎平清重、頼朝家に仕へて郡中三十余町を領しここに居住せしか
親鸞関東釋廻の砌たまたま止宿し、清重信仰の余り弟子となり薙染して西光坊と号し、則己が宅地へ堂舎を建て一寺となせり。親鸞五十余日逗留の間折しも霖雨打続きければ、山を雨降と名付け、尚自ら弥陀の像を書き與へたるは今の別殿安置の像是なり云々。然るを寛永の頃改宗して浅草寺の末に属し、其時又屡洪水の災ありしかば雨降を改め超越山と号すと云。されど今も古の宗風を追て年毎3月8日より10日まで法恩講式を執行へり。
寺宝
聖徳太子像一体。清重手自から作る処と云。
長刀一振。無名にて長1尺8寸柄長4尺7寸5分、清重所持のものと云。此余下に載る塚中より出たる佛像寺宝たりしが、何の年にや失ひて今は傳へず。
清重塚。当寺除地の畑中にあり、僅の塚なり。松二株あり上に小社を建、清重稲荷と崇めり。
昔は塚も大なりしにや後年あたり近き陸田を廣めんとて、塚をも稍堀崩せるに一の石槨堀得たり。其蓋石に梵字と蓮華を刻し、
側に葛西三郎清重と彫り、槨中に佛像及び武器等ありしかは佛像のみ取出て当時の宝物とし、其余は元の如く埋みて塚上に社を立しと云。
按に清重が遺骨をここに葬すと云うこと疑ふべし。彼は文治5年奥州の泰衡追討とて下向し、凱陣の後其功に依て奥州七郡に封せられ検非違使所の事を管領して彼国へ移転し、子孫連綿住居せし由「対内風土記」「平泉旧蹟志」「奥羽観跡聞老志」等にも載て、再び当郡へ帰住する事他に所見なしもしくば清重移転の後、一族の者ここに住してそれらの遺骨を葬せしなるを、清重が名高きを以誤り傳へしにあらすや。殊に寺伝に親鸞回国の時清重法弟と成て薙染し、宅地を寺とせしなと云事、年代齟齬するに似たり。是等に依ても清重にあらさる事論無るべし。又寺内に清重が碑とて五輪の塔あれど、銘に寛永八辛未天為道松禅定門云々とほのかにみゆれば、恐くは他人の碑なるべし。又其側に応永20年の古碑あれど是も何人の碑なりや詳ならず。(新編武蔵風土記稿より)』
- 2022/05/05(木) 15:18:20|
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大江広元の信仰の背景 前回の大河ドラマは、何もかも衝撃的だった、表題の大江広元は、文人なのに立ち回りの所作が見えたこと。後で分かったことだが、広常成敗は頼朝と大江の共謀だった。
そして八重のその後は、時代考証の坂井孝一仮説の通りに北条義時と再婚、北条泰時を産んだとなっていた。三谷脚本は視聴者の固定観念と勝負しているようだ。
その大江の信仰の対象が、専修念仏だったことは、先日の光明寺講演会で明らかになったことです。
それも京都時代に、大江広元は専修念仏帰依者となっている。
さて、人物叢書『大江広元』上杉和彦著を頼りに、大江広元の人となりに触れてみたい。
広元の人柄 p178
『『吾妻鏡』をはじめとする諸史料に多くの事蹟を残す広元であるが、彼にまつわる説話・伝承の類は誠に乏しい。いわゆる説話集や軍記物語などに広元が登場する場面はほとんどないといってよい。
多くの政治的活動とその功績が具体的に知られる一方で、広元個人の人柄を語る史料は意外に見出しにくいが、『吾妻鏡』にはこんな話が見える。武蔵国の御家人である熊谷直実が、法然に師事し遁世者として晩年をおくったことはよく知られているだろう。承元二年(一二〇八)九月三日、熊谷直実の子である直家が、十四日に京都東山で死去することを予言した父の往生を見届けるための上洛を幕府に申し出た。これを聞いた広元は、「兼ねて死期を知ること、権化〔ごんげ〕にあらざる者、疑い有るに似る」と述べた上で、厚い信仰心による直実の熱心な修行ぶりを称える言葉を発している。自分の死を予言し従容としてそれに臨む父、父の予言の正しさを確信し往生を見届けようとする子の行動に対し、「権化(人々の救済のために人の形に姿を変えた菩薩)でもない者が、前もって死期を悟れるものかどうかは疑わしい」という言葉をもらさずにおれぬ
広元は、よくいえば合理的思考の人、悪くいえば冷淡な性格の持ち主といえるだろう。と上杉は評している。 また、同じく『吾妻鏡』に見える、実朝暗殺直前に凶事を察知して思わず落涙した広元が「自分は、成人してから一度も涙を流したことがない私」と語ったという記事も、
広元の冷徹な人間像を強調するものといえよう。
文献史料の上から、広元の真の人間性を十全に知ることは容易ではない。広元とは、現実に彼が行なった政治行動のみによって、その人となりを後世に伝えた人物ということになろう。
広元は、信仰をどうとらえていたのか、上記の例では、法然に帰依し、専修念仏を受け入れてもなお、容易に
妥協することなく念仏を称えることを厳しくとらえている。
次に大江の信仰についてみてみたい。何故、浄土宗に帰依したのか。
大江の信仰の動機を解く手掛かりに九条兼実のケースで見てみたい。大江広元にとっては相当上の上司にあたる。
『
関白九条兼実浄土宗に帰依文治4年(1188)九条兼実嫡子内大臣良通が22歳で死去文治5年 法然は九条兼実に初めて授戒する。建久2年(1191)7月8月10月と法然は九条兼実に授戒する(建久年間は毎年授戒する)。
建久3年正月 兼実の返答が法皇の逆鱗に触れた。これを聞いた兼実は「無権の執政、孤随の摂籙、薄氷破れんとす、
虎の尾を踏むべし、半死半死」と自嘲している。「愚身仙洞に於いては疎遠無双、殆ど謀反の首に処せらる」(『
玉葉』建久3年正月3日条)とまで追い詰められていた
建久7年(1196)11月、
関白の地位を追われる。
建仁元年(1201年)12月10日には長年連れ添った室(藤原季行の女)に先立たれる。
建仁2年(1202年)正月27日、
浄土宗の法然を戒師として出家、円証と号した。
長男が早世した心痛から専修念仏の教えに救いを求めた
法皇の逆鱗という半死半生の時期に専修念仏の教えに救いを求めた。人はこのように抗いがたい試練を受けたときに、癒しを求め、失意の隙間を宗教に求める。
では、広元の法然に帰依した経緯を見てみよう。家族を失うなど失意の時は確認できていないが、広元も法然上人に帰依し覚阿と号している。
大江鎌倉への下向時期を探る 元歴元年1184 37歳 前年末よりこの年初めまでの間に鎌倉に下向
通説では、広元下向の時期を、「義仲滅亡・頼朝復位の後」すなわち寿永二年の末頃から翌年初めにかけてと推測されている(「鎌倉幕府草創期の吏僚について」)。
その後広元は、承安三年(二) 正月五日に外記職を去って従五位下の位に叙され、さまざまな特権を有する貴族の仲間入りをした。
『尊卑分脈』に「巡年これに叙す」とあるように、
広元の叙位任官は、六位の中で最も職歴の長い者に五位の位階を保証する「巡年の爵」という位階昇進の慣行によるものであった。以上上杉引用---------
長い間従五位の下にとどまり、年数が長くなって順送りで、下向直前に従五位の上に叙位された。冷や飯食いのような状況であったとみるべきだろう。従って、
東国への下向は、既成秩序への不満がその背景にあったと理解した方が良いのではないか。こういう失意の時、法然の言葉が、胸に突き刺さるのだろう。
この雌伏の時期に、法然の浄土宗に触れたとみられる。『『南無阿弥陀仏』と称えればみな平等に救われる、という法然上人の教えは、厳しい修行を経た者や財力があって善行をつとめたものだけが救われるという教えが主流であった当時の仏教諸宗とは異質で画期的なものでした。』
いってみれば、先に昇進した人々の鼻を明かす、そんな下衆の思いはないだろうが、
みな平等に救われるという法然の教えは、広元には、励みになっただろう。貴族の最下位に長く十年も留め置かれていた広元にとって、これは大いなる救いであっただろう。貴族として取り扱われればそれだけ悔しさも募っていたと思う。それを信心という内心において、実施できる法然の教えは、広元の世界を切り開いたのです。
鎌倉に下向したときには、京の都に決別の意思を持っていたとも考えられる。むしろ
腐敗した貴族社会に対するある種の反発、九条兼実との関係も一通りの関係ではなかった。当然兼実は上司だから、広元の人事にはいろいろ注文を付けたが、後年には、むしろ広元の発言に一喜一憂するようにもなる。
承久の変の際主戦論を唱えた広元の背景には、これらの事情があったのだろう。そういう辛い時期に法然に出合い、帰依することになる。出世だけを人生の生きがいにする人物ではなく、
人の幸せを複眼視して豊かに人生を過ごすことができたのではないか。
先の光明寺講演会の中で、
法然上人と北条政子の関係を帰依という言葉を使っていなかった。改めてこのことを考えたい。
4人の実子はいずれも病死 暗殺という失意の中の政子、絶望的ともいえる状況の中で、心の隙間を埋める救いとして法然の教えを受けた
政子の精神状態は、帰依するに至っていたと考えてよいと思う。それは、九条兼実の長男の早世や法皇の逆鱗という半死半生の状態に専修念仏の教えに救いを求めた例を待つまでもないだろう。
法然上人は、失意にいる人と共にその悩みを解いていくような作業をしていたように見える。
大江稲荷大江稲荷を探す。石材砂山の前の路地にあった。
人物叢書大江広元の著者の見解。
屋敷跡について、この十二所の滑川屋敷があったという史料は一切なく、同地に近い明王院の脇より瑞泉寺に向かう山道の途中に広元のもの伝えられる墓があることから、江戸時代になって生まれた伝承によるものと考えられる。
- 2022/04/21(木) 10:22:26|
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大江広元の人柄信仰大河ドラマ「鎌倉殿と十三人」での大江広元の登場は、心なしかドラマ展開にも落ち着きというか重厚感が増したようにます。大江の人物像の描き方は、東国武士たちの一触即発、血なまぐさい抗争の中に一本芯を入れたような描き方を感じます。
治承の旗上げという動乱期を乗り越え、武士政権樹立の基礎を築く時期という時代背景にピッタリの人物だった。同時に大江広元を登用した頼朝の力を改めて見直す機会ともなった。頼朝の持つすぐれた資質を持った人を見抜く力や卓越した人心掌握術を感じるようになるのです。
大江の確信に満ちたぶれない政策態度、冷静沈着な性格を表しているように思いますが、大江の性格・人柄などについては、案外明らかになっていないのです。凡そ文化的素養など人物背景が良く分からないのです。
大江広元は下級公家の家系で育ち、官吏の道を切り拓いた。朝廷では主に奏文の作成、儀式のとり仕切りなどを担った。
兄・中原親能が源頼朝と親しかった縁で、幕府の文官に紹介される。守護・地頭の設置を建言した。
承久の乱では、主戦論を説き、朝敵となることを躊躇する御家人を鼓舞し、幕府を勝利へ導いた。
鎌倉幕府源氏三代将軍の側近となり、幕府の高級官僚として活躍した大江(中原広元広元は、文官貴族の家に生まれ、実務官人として活動した後、関東に成立したばかりの源頼朝の軍事政権に加わり、四十年以上にも及ぶ長期にわたり、その優れた実務処理能力と豊富な学識を駆使して幕府に奉仕した。
広元は、有力御家人同士の激しい武力抗争が頻発した二代将軍頼家・三代将軍実朝の時代においても、将軍側近の立場を貫きながら、幕政の主導権を握りはじめた執権北条氏の一族との協調関係を強め、幕府宿老としての存在感を示し続けた。日本における武家政権の確立と長期にわたる存続の要因の一つとなったといっても、決して過言ではないだろう。
(人物叢書『大江広元』上杉和彦著)
さて、次回以降人物叢書『大江広元』上杉和彦著を頼りに、大江広元の人となりに触れてみたい。
- 2022/04/16(土) 09:35:17|
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