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相模湾 海から見る風景

ご訪問に感謝します。Yahooブログの終了に伴い移住してきました。逗子、鎌倉の海を眺める散歩の日々、神奈川の古代を作った人々に思いを馳せ、古代史探訪、鎌倉歴史探訪、同時に日本や日本人を問い続けたいと思います。

古東海道東出口の道筋

古東海道東出口の道筋
 前回、古東海道の鎌倉への経路について、海岸沿いの星井寺を通り一度海岸に出たあと、稲瀬川河口付近で六地蔵交差点に向かって北上する道筋を紹介した。
(のちの)長谷小路に重なる経路については、長谷小路周辺遺跡報告書の発掘結果から砂丘が覆っており、時代の新しい道として位置付けた。

 今回は、さらに東に大きく向きを変えて下馬四ツ角を通過する道筋を想定する[野ロー九九三、馬淵一九九四]。
若宮大路以東では、大町をつらぬく旧国道一三四号線を充てるのと、材木座海岸を南下して小坪付近から沼浜に抜けの[木下ほか一九九七]。と、大きく二つの説に分かれる。

奈良時代原本
再掲
 現状でいずれの意見も確証を欠くものの、一致しているのは、六地蔵から下馬四
ツ角に抜ける道(旧国道一三四号線)をそれだとする点である。この道路は、その脇が調査された際、側溝らしき溝が検出されており、出土土器年代から、遅くとも十世紀前半までには存在していたようである(調査担当者原廣志示教)。ここまで「中世都市鎌倉の実像と境界」馬淵

 ここでは、材木座海岸を南下する説を中心に述べてみたい。
この材木座コースについては、逗子市教育委員会昭和55年発行 赤星直忠調査団長の住吉城址報告書 「古道と住吉城」章 で詳細報告されている。これに基づき、古東海道を紐解きます。

「住吉城は相模湾岸に位置する。
古東海道(奈良時代末までの東海道)は鎌倉前面の海岸を西から東に通じ、鎌倉の東側を南北に連なって飯島岬で終る光明寺背後丘陵を先端で越え、逗子を回り葉山から三浦半島を横断して走水に達し、東京湾を越えて房総半島にわたった。鎌倉海岸東端のどこをどのように越えたかは全く知られていなかった。
 源平盛衰記の由比が浜合戦(畠山重忠と和田義茂との合戦)記事中に三浦義澄以下の騎馬が小坪坂をかけ上って小坪峠上から合戦をみおろした状景がある。物語だから全部を信ずるわけにゆかぬが記事は地形的に違っていないから、浜から小坪坂上にのぼる路が存在したと判断される。山上に小坪峠があった。その路がおそらく古東海道の名残と考えてよかろう。
その古道が最も古い形で記録されたと考えることのできる資料は、明治15年測量の陸地測量部2万分1地形図「小坪村」「雪下村」がそれである。

古東海道正覚寺

 正覚寺西側から谷奥に進み、背後支尾根中腹から斜に扇山にのぼる路が記されている。扇山尾根の西縁を北東に進むように記されている。もと鎌倉第一中学校庭の南端になっているところに尾根を北西から南東に切り通した道があって、材木座海岸から光明寺裏山にのぼる山腹の新道につながっていて、「うばがやと」に下る道があった。扇山を通った古道がこの切通の西側で合致し、「うばがやと」に下るものだったのである。」

住吉古道
  報告書にはもう一枚昭和50年代の地図に、やぐらなどの葬送遺構の分布が記されている。
正覚寺脇旧道の旧ニコンテント村の先扇山標高40~50mにやぐらが点在している。下図■印はやぐら点在地、つまりこの地点は道があったことになる。これを結ぶと、古道古東海道の道筋が辿れる。旧テント村標高34m更に坂道が続いていて、標高40m程度まで現在でも道が残っている。その先のやぐら所在地40m~50mを辿ると崖の中腹に道がかたどることができる。
その先「うばがやつ」に通じる下りの階段の先になだらかな道になる。

葬送遺構沿古道

 崖の中腹を縫うように進む道は、現在の134号線トンネル入口の真上になって、トンネル工事によって、この切岸は破壊された。
真下が海になり、景観はよいが、海が荒れた時、風の強い時は、通過するのは命懸けかもしれない。
だが、平安時代末期の平家物語に出てくる、小坪坂の戦いの際、畠山軍が、ぞろぞろと続く応援の三浦軍勢を見て千葉氏の加勢があったと勘違いするほど、長く続いたことが分かる道は、光明寺裏手に続く比較的緩やかな道が林の中に辿れる。

 伊藤一美著「都市周縁の地域史」によると「小坪付近は、かつての古東海道が通っていたといわれており、鎌倉初期、海岸沿いに道が開けていたらしい。『源平盛衰記』の中に「小坪ノ坂口」「小坪峠」と見えているが、当時の道は、現在の国道134号線が逗子市と鎌倉市に接して扇山トンネルをくぐる付近、切岸状になっているが、尾根脇にかすかに道跡らしきものが残されている。鎌倉光明寺背後から鎌倉第一中学校脇を抜けて、扇山続きをめぐり、「姥ヶ谷」に下りる小径がその道である。今でも峠に立てば、飯島から由比ヶ浜、稲村ケ崎方面は一望できる。」

 3年前のトンネル脇の崩落事故後に、現場を見ていた老婦人は、「崩落個所には、私が娘時分に道があって、通るのが怖かった。」と言っていた。

 源平盛衰記で三浦軍が続々と馬で現れた様子は、小坪峠ならではだろう。
名越と住吉谷どちらが古東海道かまたは、どちらが古いのかだが、
以上の点を踏まえると、古東海道のより古い古道は、こちらの小坪道と考えている。
その後名越道に代わったと思われる。

 街道を歩く旅人は、道標が必要だ。尾根路が古街道に多いが、見通しが良いのと、道標を確認しやすいからだ。小坪の海辺沿いの尾根は、富士山や江ノ島を確認しながらどれだけどの方向に進んだかがよくわかる。住吉谷は、僅かに谷あいに入るが、再び披露山に差し掛かれば、登りになり見通しが良くなる。

 ところが、名越は山中に紛れてしまうことがある。源頼朝主従が、伊豆に捕らわれの身の頃三浦を訪ねた帰りに、山中で路に迷い、久野谷親子に助けられたのもこの名越である。人通りもまだあまり多くなかったのだろう。

遠方から望見できる地形的な特徴、たとえば独立峰あるいは山脈・台地の突端などが目標にされたことが伺えるという。むしろ尾根沿いに山を越えて直進する場合が多く、自然災害に対する安全性と軍事上の安全性が図られたようだ。
小坪峠や岸壁の狭い道は一度に1、2騎が通れるほどの狭い道であったため、長く連なる行軍となる。これを遠目に見ると「ぞろぞろと続く応援の三浦軍勢を見て千葉氏の加勢があった」と畠山勢の者たちは勘違いしたのです。戦の心理とはそういうものでしょう。
地形的にはまさにぴったりと一致します。

光明寺の上空写真でその点を想像してみます。
光明寺航空写真

光明寺絵図享保5年(1720)の扇山の古東海道と思しき道筋と現鎌倉第一中学付近の山道が描かれている。

光明寺絵図拡大古道

 現在も正覚寺西の道が残っています。古東海道の面影が偲ばれる。ここを日本武尊一行の姿も思い浮かびます。
光明寺、正覚寺の開山浄土宗三祖良忠上人は、この小坪峠を抜けて、鎌倉に入りました。
正覚寺本堂裏の岩窟に住みながら念仏信仰を広めました。「葬送住吉瓶子山麓茶毘所」とあり、この地は良忠上人を茶毘に付した所ともいわれています。

住吉谷古道
光明寺第九祖祐崇上人は鎌倉井之島(正覚寺のある地名である飯島)住吉谷に入り、岩窟に移住して、念仏を業としたとある。この古東海道住吉谷は、鎌倉時代に入っても多くの文化の交流の拠点であったことが窺えます。
勿論隣の和賀江島の築港でさらに外国との交流、文化の拠点でもあったのです。

坂道は、旧ニコンテント村の中を通って、石の道が扇山を右に巻くように斜めにのぼっていきます。

石径斜め

民有地なのでこの奥は、葬送遺構の地図で想像するほかはありません。
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  1. 2019/05/24(金) 21:51:34|
  2. 逗子・鎌倉の古代史
  3. | コメント:0

鎌倉の古東海道

鎌倉の古東海道
最近鎌倉六地蔵から笹目塔の辻、長谷小路界隈、今の由比ガ浜大通りを歩く機会が多い。
街並が落ち着いている、老舗の風格ある店舗や格子戸を残したままの仕舞屋の風情が、生活感があって、大正ロマンというか、郷愁を感じさせるたたずまいを見せてくれる。一軒づつ見ていても飽きない。古い店構えと、新しい業態とが織りなす雰囲気も良い。古い店を改造して、全く違う業態に変わったところもある。新陳代謝もあって、町全体が活気づき、活き活きしている印象がある。
老舗の多くが、大正年間の関東大震災で全・半壊し、震災後の復旧で建てられた大正建築の特徴を残している。
「長谷では稲瀬川から由比ヶ浜駅を越えて県道付近まで浸入、坂ノ下では県道北側の人家を流したといわれます。地盤が砂質か埋め立ての土であったため震動が強かった(『鎌倉震災雑誌』より)浪川幹夫」

寸松堂


景観重要建築物等に指定されている歴史的建造物が集積しているのも、この地域の地震の被害が甚大であったことを表しています。今蘇って、文化財として街歩きの観光対象になっていることはその歴史の価値を感じないわけにはいきません。

この界隈は、奈良時代の古東海道が通り、歩く目的もその痕跡を求めることにあります。
鎌倉の奈良時代と言ってもピンと来ないと思いますが、今小路遺跡の発掘で奈良時代鎌倉郡衙の所在がはっきりしました。御成小学校付近の郡衙から南に下る道が、今小路だが、六地蔵で古東海道に接続します。

奈良時代原本


古東海道の道筋
この古東海道は、律令時代の諸国の国府を結ぶために整備された道。 相模国では、相模湾沿いに平塚、鎌倉、三浦半島へと通じ、走水から浦賀水道を渡って房総半島に通じていた。日本武尊が、走水から房総に渡った道と言われる。
その後「宝亀2(771)年に東海道の経路が変更された。 それまで東山道に所属していた武蔵国が東海道に編入され、相模国から武蔵国を経て下総国に向かう陸上交通が重みをもつことになった」のです。
この古東海道は、笹目の塔の辻から由比ヶ浜駅の脇を通り、稲瀬川から星井寺方面に向かう。
星井寺方面から見ると、この急坂を下りきると海岸に出る。この急坂は、当時は、成就院のレベルを道が通っていたが、後代に土砂を削ったという。
稲瀬川の河口付近から塔の辻方向に向かう。

是より東海道の石碑
塔の辻の笹目交差点に、鎌倉彫の老舗寸松堂が、風格ある建物を見せている。店の店頭に、
「是より東海道」の石碑が立っている。以前は、店の庭にあったという。店の右手路地に、塔の辻の石碑が立ち、昔由比の長者太郎太夫時忠の愛児が鷲にさらわれた塔の辻の謂れを伝えている。

是より東海道


長谷小路を挟んで反対側には五輪塔の欠片が建ている。塔の辻を連想させます。しかしそんなに古い五輪塔ではありません。

滑川の潟湖
地図中ほどの水色の潟湖は、「滑川の河口に、滞った川の水が、潟湖を形成し、奈良時代に、郡衙が設置されるが、その選地の背景にはこの潟湖を港として利用する目的もあったとみられます。」
平安時代に源頼義が、この地に石清水八幡宮をお祀りした鶴岡八幡宮の元八幡が、この潟湖のほとりにあることの意味も同じでしょう古東海道と海に繋がる潟湖を配した地ですから最重要地点でした。

長谷小路は、六地蔵から長谷観音に向かう県道鎌倉・藤沢線の道筋をあてる説もある。しかし、 江戸時代には扇ガ谷村と長谷村の境は今小路の東に接している巽荒神前で、ここから北が今小路、南が長谷小路とされている。
先年、「長谷小路周辺遺跡」と名付けられた古墳時代後半の箱式石棺墓が出土しました。
地図の甘縄神明社と江ノ電に挟まれた黄色のポイントです。
この遺跡報告書によれば、「鎌倉市内では、箱式石棺墓は初めての出土で、神奈川県内でも出土事例は少ない。
検出遺構の年代は、本地点で検出された3面の遺構は石棺墓1基と土壙墓1基のみで、遺物は全く出土していない。そのため、同時代と思われる横須賀市久里浜で検出された石棺墓の年代が古墳時代後半と報告されていること等から古墳時代後半と考えている。」
6世紀初めから7世紀の半ば頃までを古墳時代後期600年頃か。

長谷小路に関する遺跡報告書の内容
 この報告書に、長谷小路に関する興味深いことが書かれていました。
「中世の長谷小路の道筋は明らかになっていないが、吉屋信子記念館前の道路を長谷小路の道筋とする説が発掘調査の結果から提議されている。その根拠は乏しいが、吉屋信子記念館前の道路より南は砂丘地帯になり、この道路の南に接する発掘調査で現在の道路に平行する方向の道路が発見されている。」
長谷寺は、奈良時代行基による創建伝承があるが、考古学的遺物からは、鎌倉時代を遡らず、鎌倉時代の西方浄土信仰による創建と言われる。(鎌倉国宝館特別展示での説明)
甘縄神明社の参道は、この県道を越え海岸の古東海道に直結していることも、この塔の辻から長谷寺に向かう道が後代に造られたことの傍証になるでしょう。
更に報告書は、次のように総括しています。

「都市に組み込まれる前の由比ガ浜地域は、居住空間として使用されている空間は僅かで、ほとんど開発されていない起伏の激しい砂丘が広がっていた。そしてそこにヒトや動物の遺体を遺棄する場所が点在していた可能性がある。因みに、この頃の極楽寺坂・大仏坂を越えて鎌倉に入る道路は、現在の鎌倉文学館下から吉屋信子記念館前を通る道路の道筋と考えている。(ピンク色の道)東と西は住宅地で分断されているが、東は六地蔵辺から鎌倉市街に、西は甘縄神明社下、長谷寺前まで延びていたと推測している。ここから南に向かうと御霊神社前を経て極楽寺坂に、北に向かうと高徳院の大仏前を経て大仏坂に達する。」

吉屋邸門


報告書の内容は以上の通りですが、これは、古東海道の道筋に関わることになると思われますが、宝亀2(771)年に、古東海道は、経路を変更となり鎌倉は外れていた。それから300年近く経過しており、鎌倉に入る道も変更されていた可能性が高く、整合性が高い見解と思われる。

今回は、古東海道が鎌倉郷に入る塔の辻を中心に、長谷小路界隈と古東海道の接続などを中心に見てきましたが、今後は、中心部の様子も探ってみたいと思います。
  1. 2019/05/14(火) 19:27:53|
  2. 関東の古代史
  3. | コメント:2

海の様子が変 磯焼け?

海の様子が変 磯焼け?
この時季は、春の大潮で潮の干満が大きく、干潮の時、逃げ遅れたタコなどを追って潮遊びが行われます。連休中は多くの人が楽しみました。
連休が明けて、近所の住人の出番です。バケツをもって楽しんでいました。
磯遊びもまばら

ところで、少し心配なことが起きていました。
海岸の石が、白くなる現象が起きているのです。石灰を塗ったように真っ白になっています。この数年こういう現象が目に付き始めていたのです。潮でこうなるのだと思い込んでいましたが、各地で起きている海の異変のようです。

沿岸部の海草が少なくなる『磯やけ現象』の一部なのではという意見もあり、海の水質が悪くなっているのかもしれない」と心配する声が上がっています。
ネットで調べてみましたが、この岩が白くなる現象は全国各地で起きているようです。
これを『磯やけ現象』というのかはまだ良く分かりません。
最近のワカメの不漁や、魚自体が取れなくなっている現象を聞くにつけ、気になります。

白化現象


「磯焼け(いそやけ)とは、海藻が繁茂し藻場を形成している沿岸海域で、海藻が著しく減少・消失し、海藻が繁茂しなくなる現象を指す。 それに伴って、アワビやサザエ等の生物が減少し、沿岸漁業に大きな打撃を与える。」

もともと海藻植生の乏しい貧植生域の沖焼けや藻場は、気候の寒暖や海況の変化に伴い、多少とも経年変動を示すのがふつうだから、少し長い目で見る必要がある。
このような恒常的な貧植生域 や小刻みな変動は除かれるという。
また春の大潮の頃に干出や河川水の影響により潮間帯の海藻が. 白くなる白化現象は、磯焼けとは異なる現象である。

海の砂漠化「珊瑚の白化現象」が、有名ですが、生息している周辺の環境が悪化あるいは、地球温暖化現象の影響が海中にもたらしている目に見える大きな変化だと言われます。
こんなことにならないことを祈るばかりです。今後も観察を続ける必要がありそうです。
  1. 2019/05/09(木) 12:32:15|
  2. 逗子鎌倉葉山散歩
  3. | コメント:2

美味しい魚Ⅱ

美味しい魚Ⅱ 
「美味しい魚が食べたい」と前回書いたが、聞こえたかのように漁師からカサゴを貰った。
から揚げにしてもらった。二度揚げして、カリカリになったものを頭から丸ごと食べた。家人も恐る恐る食べていたが、きれいに丸ごと食べてしまった。
骨が少しだけ硬かったのか残していた。背骨まで切れ目を入れ捌き、骨まで食べられるようにしたが、わずかに相当頑丈な骨に適わなかったようだ。

煎餅のようにというが、カリカリに揚げたカサゴは、香りがあって、お餅のおかき、大きなあられのように感じた。何か食べていて豊かになるホッコリ感があった。美味しい魚が食べたいという願いが、家族中で味わえた幸せとでもいうのだろう。
もう一匹は、潮汁で楽しんだ。

カサゴ


漁師の親も、魚がおいしくなくなったと嘆いていたそうだが、自分が獲ってきたものを食べるとおいしいと言う話をしてくれた。これは、新鮮さと、食の安心・安全のことではないのかと思う。
魚が釣れなくなった談義を重ねた。それは、釣り道具の進歩、特にGPSや魚探の精度が上がって、魚の住処を丸裸にして、根こそぎ魚を採るようになった点で、私と漁師の意見は一致した。
限りある水産資源量を一気に追い込んでしまったのだろう。

私たちも、反省しなければいけない、釣りのポイントを調べ上げ、上物から底ものまで一年中追い回すようになっていた。
かつては、季節ごとに狙う魚種を変えていたが、上物が釣れなくなった昨今、深場の魚は、通常冬場に狙うものだが、その他のシーズンも追いかけ始めた。春になると潮が早くなるので、深場の釣りはやめるのだが、上物が釣れないからと一年中底ものを狙ってしまうのだ。

結果今のように、美味しい魚が消えてしまうことになってしまった。
栽培漁業の推進もさることながら、季節に応じた釣り、季節を楽しむ釣りの大事さを感じている。
肉はおいしいが、新鮮な魚はもっとうまいものだ。
カサゴは、明日は「から揚げに甘酢餡かけ」にしてもらう。

時あたかも、平成が終わる日、この30年間の釣りを振り返るようなことになったが、釣り道具の進歩・物質的豊かさが、水産物を限界に追い込んでしまった。異常気象もその原因の一つという意見もあるが、これも物質的豊かさがもたらしたことと考えると、物欲、食欲ばかりだが、それでも美味しい魚が食べたいというのであれば、立ち止まって考える価値があるように思う。

一昨日の富士山


天候に恵まれない連休前半、漸く晴れた28日、富士山もかろうじて見えたが、雪が少なくなって痩せた感じがした。
  1. 2019/04/30(火) 11:24:01|
  2. 江戸の味舌つづみ
  3. | コメント:8

美味しい魚が食べたい

美味しい魚が食べたい
美味しい魚が食べたいが、それがなかなか叶わない時代になってきた。海の近くに住んでいながら変なことを言うなと思う方もいるでしょうが、以前と比べて、難しい環境になっているのです。

漁師と話していても、魚が採れないというぼやきばかりだ。
この時期は、ワカメ漁も終わり、たこがシーズンなのだが、それも獲れない。漁師仲間は、何もやる漁がないならと見突き漁に出かけた。本来この時期は、潮が濁り、海中が見えづらい上、海藻のカジメが大きくなって、サザエが見えにくいので見突き漁はしないのだが、今年は、水がまだ澄んでいるので、漁が期待できると出かけたという。
四方を海に囲まれる日本だが、魚も確実に減っている。
水産庁の「水産白書」によれば2010年に、それまで魚の方が多かった年間消費量が肉と逆転した。これも当然の結果なのかもしれない。
漁船

地球温暖化による「異常気象」や「生態系の変化」を、魚がいなくなっている要因に挙げる人もいます。海の状況は年々悪くなる一方です。

さて、それでも美味しい魚が食べたい、それも煮付が食べたい。
三浦半島の先端に金目鯛の煮つけを食べに行くことにしました。
一日12食の限定品だと言われた。相変わらずいい味を出していた。タレが甘すぎず、醤油がきつすぎず苦みが消えている。
ぶ厚い身に、タレをつけて、中まで味が染みていることが良く分かる。タレが、脂のような粘り、とろみがついている、金目鯛の旨味が溶け込んで絶妙な味なのです。

キンメ煮付

ご飯をお替りして、タレをご飯にかける。塩分も砂糖も濃いのでしょうが、栄養がたっぷり溶け込んだ煮汁は捨てておけないのです。
これぞかつて水産王国日本の食べ方なのです。
  1. 2019/04/25(木) 18:37:39|
  2. 江戸の味舌つづみ
  3. | コメント:4
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