三浦と畠山の小坪坂の戦い

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三浦と畠山の小坪坂の戦い
三浦義澄らは船に乗て三百騎沖懸りに漕せけるに、浪風荒くして叶はず。二十四日に陸より可(レ)参にて出立けるが、丸子川の洪水に、馬も人も難(レ)叶と聞て、其(その)日(ひ)も延引す丸子川(酒匂川)に到着しましたが、大雨による増水のため、川を渡れなかったのです。
酒匂川の向こう岸にいた頼朝勢の大沼三郎が、「三浦党に、大沼三郎也、佐殿の御方に参たりき、軍は既(すで)に散じぬ、参りて申さん、河の淵瀬を不(レ)知、健ならん馬を給はらん、三浦の人々と奉(レ)見は僻事歟と喚。三浦はあな心苦し、急ぎ馬をやれとて、高く強き馬を渡たり。大沼是に乗て河を渡り、陣に下りて云ひける」元気の良い馬を渡してくれとのことで、馬で川を渡ってきて、尋ねるに、頼朝が大庭景親の軍勢に大敗した。
源氏方の敗北を聞き佐殿の生死も分からず泣きだすものも出る有様、ここは一旦三浦に戻ろうということになった。
やむなく本拠地の衣笠城(神奈川県横須賀市衣笠)に引き上げることとし、海岸沿いに由比ヶ浜から小坪(逗子市)に差しかかった時、運悪く平家方畠山重忠軍と遭遇してしまいます。
和田義盛は三浦義明の長男義宗の子、父義宗が早くなくなったために、三浦氏の棟梁となった三浦義澄に対して、従っているが本来自分が三浦一族の棟梁となるべきものという意識がある。それが災いして、義澄の指示にはことごとく反対を唱えていた。それがこの後の大失敗につながるのです。
この時も、畠山軍を挑発してしまった。「和田小太郎義盛と云者也、石橋の軍に、佐殿の御方へ参つるが、軍既(すで)に散じぬと聞けば、酒勾宿より帰也、平家の方人して留んと思はば留よと、高く呼てぞ打過る。敵追来らば返合て戦はん、さらずは三浦へ通らんとて、小坪坂を上らんとし〔たり〕ける時に、」

扇山古代東海道道筋


「三浦の輩にさせる意趣なし、去共加様に詞を懸らるゝ上に、父の庄司伯父の別当平家に奉公して在京なり、矢一射ずは平家の聞えも恐あり、和田が言も咎めたし、」
小坪の坂口にて追付たり。畠山進出て、重忠爰(ここ)に馳来れり、「いかに三浦の殿原は口には似ず、敵に後をばみせ給ぞ、返合せよと罵り懸て歩せ出づ。」
三浦三百(さんびやく)余騎(よき)、畠山に懸られて、小坪の峠に打上り、轡を並て引へたり。和田小太郎は、白旗さゝせて二百(にひやく)余騎(よき)、小坪の峠より打下り、進め者共とて渚(なぎさ)へ向て歩せ出づ。
この時、三浦義澄は、一足先に鐙摺山城に向かっていた。

相模の豪族三浦義明は、重忠の母方の祖父にあたります。和田義盛は三浦義明の長男義宗の子、どちらも義明の孫ですから、双方とも本気で戦う気はなく、すぐに和解が成立したところに和田義盛兄弟は、再び大きな間違いを犯したのです。
弟和田義茂は、所要があり、杉本寺裏手にあった父義宗の居城に寄っていたのですが、兄和田義盛から危急の知らせをうけた和田義茂(よしもち)17歳が和睦を知らずに杉本城から駆けつけ、畠山勢にわっと襲いかかりました。
気を許していた畠山重忠は激怒し、由比ヶ浜から小坪にかけて行われた合戦は熾烈でした。
この合戦で三浦勢は、三浦義明の孫、多々良重春、その郎従の石井五郎ら4名を失っただけでしたが、畠山側は綴(つづき)党ら50余名が犠牲となりました。
和田氏が駆け抜けた道
和田義茂が犬懸け坂より駆け下った道
この時、義澄の本体が、鐙摺から合流した。小坪坂を馬が続々と下ってくる姿は、「道は狭し、二騎三騎づつ打下けるが、遥(はるか)に続て見えければ、畠山是を見て、三浦の勢計にはなかりけり、一定安房上総下総の勢が、一に成と覚えたり」畠山方は、続々と下ってくる敵の数の多さに三浦だけでなく安房上総下総の兵も援軍に来たと勘違いしたのです。
一気に戦は終結に向かい、慌てた畠山軍の様子が分かるが、慌てれば慌てるほどに悔しさがこみあげてくる、この悔しさはすぐに江戸氏をはじめとした秩父一統が集結して三浦義明の護る衣笠城に向かうことになる。
江戸氏の強力なさまは、その後頼朝が、下総国府から浅草に向けての進軍を躊躇させるに十分なものであった。
扇山葬送遺構沿古道
     
この時の小坪坂は、写真に示した通り、扇山の裾を通り、正覚寺で北に向けて坂を登り、かつてのニコンテント村に入り石径を斜めに登り扇山の壁面にあった道を北に抜ける。この壁面の道は、最近まで痕跡が残っていた。2016年09月に起きたトンネル脇崩落事故の際現場を見ていると、90歳位の老女がいたので、「中腹には道があったそうですね」と尋ねると、「自分が娘時代にあの道を歩いていたが、怖かった」。と言っていた。まさしくこの道沿いには、中世の葬送遺跡が点在している。
光明寺や、正覚寺の開山良忠上人は、この道を通って鎌倉に入った記録がある。
鎌倉第一中学校脇の坂道を小坪坂とする考えもあるが、この道はもっと後世にできた道
姥子台に通ずる古東海道沿いに出るには、10m以上の段差の急坂を越えねばならず、馬で超えるのは難しい。
ニコンテント村から扇山を迂回するルートが歴史的にも地理的にもまた平家物語の描写も合致する。
つまり海岸から、見ると隊列を組んだ馬列は、勇壮と言ってよいくらいに長く続いた。
「遥(はるか)に続て見えければ」というほどに、扇山の標高67m付近の平坦な道は長く続きます。
海岸から見える付近には、平安末期にこれに勝る古道はありません。
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